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2012年5月28日月曜日

大豆冷蔵庫内

整理のため毎日いろんな品種が遊べて楽しい。
うまさは品種・・・、というより作り方・組み立て方に軍配があがる。
もちろん大豆そのもののもつ"特性"を生かすようにこちらは組み立てていくわけだが・・・。
作るひとを"無"にしてあとに残るものが・・・なんてかっこいいことを言ってもそんなもの販売戦略のキャッチコピーのようだ。
アルプスの・・・山の・・面の・・・という木を使えば妙なる音のヴァイオリンが・・・、なんて言ってもだれが作ってもそうなるわけではない。
作るひとが"無"になって後に残るは木そのもの、というのはやはりそれを導き出す"ものつくり"あっての話だ。
借金無しの陳腐化に伴ってB、C球のまずい豆腐が氾濫しているが品種を推した責任を感じている。
品種なんてなんでもいいというスタートの決意なくして「最終的には作り手ではなく品種の力そのものだ」という発言は正当性はなりたたない。
コマーシャリズムの思い上がりが「能書き過剰」の市場を活気づけている。
無農薬・・・、無添加・・・、天然・・・・。
こんなものを助長したのはだれだろう。

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