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2014年10月31日金曜日

親戚から

畑一枚がいっせいに枯れ、こぼれ始めてると電話。
ごご駆けつけると、やはり大変なことに気づく。
機械でその場脱穀するには早すぎる、つまりさやがはじけ始めたとはいっても全部のさやの中身が「完粒たね」までに乾燥しているわけではない。それに茎もしめっているので脱穀機の回転軸に巻き付くにきまっている。コンバインだとまだまだ置いておくのだろう。
つまりコンバインだと刈り取るタイミングまでの間に1割以上はこぼれていることになる。
さらに刈り取りの段階で泥の巻き込みを防ぐために地面から少し高いところを刈り取っていくことになるので、刈り取り時の振動も相まってここでまた1-2割はロス=刈り残しを出すことになる。
コンバインはおそらくできあがった大豆の3割は軽く失っていると想像できる。
やはり手刈り・自然乾燥を出来うる限り続けたい。2町歩くらいまではなんとか、というところだけれど。・・・あしたは雨かな?

2014年10月28日火曜日

夜中に目覚めてそのあと眠れないのは

年寄りの自然現象かな、と思っています。
みんなそうなのかしら。
トイレに行くわけでもない。
ということで1,2時に起きてしまうとあとがやっかいなわけだけれども暗い中でじーっと横になっているしかない。状況によっては音楽を聴く。きのうはしっかりと聞けて3,40分は真剣に聞いていたようだ。・・・ホロヴィッツ。技巧におぼれているようでいて技巧自体が芸術になってしまっている。いやみもなにもない。やっぱりすごいわね、ということを感じた。

2014年10月23日木曜日

今週は満足に寝られたのは

今のところ一日だけだったような気がする。
2日間は歯が痛かったのでしかたない。
そのほかはなんだったのだろうか。

ゴールドベルク変奏曲の聞き比べをしようと思ってグールドの晩年版(1981年)と1955年版、園田高弘、ニコライエワの4枚を用意して順次聞いていったらニコライエワのが始まらない。盤面を見ると外周の一カ所にぽつんと黒い点状の汚れが・・・。
レーベル面から反対側の記録面にかけて貫いているような具合に黒くなっていた。
このCDは買ったばかりの時なんども聞いていたものだけれど、いつのまにこんなことになってしまったのだろうか。
CDでひどい者と言えば10枚組くらいのやつでCDとCDのあいだにスポンジをはさんでクッションにしていたものが、スポンジが融けてCDにはりついてしまいはがれなくなってしまっていた(もちろん演奏しない)ものがもっとも頭に来ていた例だけれども、今回みたいのはひょっとしたら新品の時にちょっとした手垢よごれとか何かが付着していてそのままにしておくと10年もたつととんでもないことになってしまうよ、という例なのかなとも思った。
完璧、といっている記録方式もこれじゃあひっかき音や傷音のあるレコードのほうがずーっといいではないか。
CDは一転がこういう状態だとまったくスタートしない。
レコードは傷音が入るだけで変形やひどいかび等さえ防げばそれこそ数百年は大丈夫なのかしらね。もっとも再生機械の存在と、プラスチック(レコードの材質って・・・?)変質による溝の崩壊が無い限りということだけれども。
それにしてもCDはある部分はとれない汚れ・傷によって聞けないけれどもそのほかは大丈夫だよ、というわけにどうしてならないのかしらね。
市長がだめでも部分的には機能は安泰、市長がだめで市全部が崩壊・・・たとえが良くないかな。

2014年10月21日火曜日

きのうから今日は

歯はいたくなかったもののなぜか眠れなかった。
濃いガテマラのコーヒー2杯のせいだろうか。
それなのに昼間はあくび一つでない。
これは良くないことだと思う。

株はしめってはいたが刈り取りをやる。
ここ2日でがらっと畑の風景が変わってしまった。
これからが時間とのたたかいになる。あっちこっちの畑がいっせいにできあがりとなっていく。

関東農政局の統計部門の係官があいさつに来る。
毎年のことだ。
以前は坪刈りということをしていたのだが国の人員整理もあって今では口頭での受け答えになっている。今年のできは?ということの調査だが、具体的な答えは11月で、最初の挨拶回りにきてくれたということ。受け持ち地域が広すぎて大変そうだ。所沢はウチだけだと思う。

家に帰ってふと金木犀の下を見ると"花"が落ちている。
えーっ、と上を見ると花がたくさんついている。
これはこれはどうしたことだろうか。
今年は9月15日前後にわずかだが開花、10月第一週に本格開花そして散る、これに加えてなんと今頃いっぱい開花(とはいっても10月頭にくらべるとやや少ない、花が散ってしまって少なくみえたのかもしれないが)。
今年は気温の変化が激しくて短い期間の間に狂い咲きしてしまったのだろうか。
そういえば寒桜ならぬふつうのソメイヨシノの木に花がぱらんこんぱらんこんと咲いているのを車を運転していて何カ所かで見つけた。
桜の狂い咲きもふつうはもっとあとのことだと思うのだがどういうわけかこんな時期に咲いている。

2014年10月20日月曜日

2日眠れず。

頭がずきずきしていたのがだんだん歯がずきんずきんといたくなってきた。
体調が悪いので歯に来たのかなとも思うがいちおう歯医者さん予約。
3年ぶりかな。
この年齢になると年に2度は定期点検したほうがいいと人生の先輩に言われたことがある。
あのドリルの音がねー。
いい先生で少しいたいのだけれど治療した後・詰めたあとはとてもいい、上手な先生である。
自分より少し年下かなと思うがこれからもずーっと世話になるのかな。

てなわけで歯医者さんに行き結構長い治療を受け帰る頃には雨となる。
それにしても歯医者さんは重労働だなと感じた。
年をとると結構きついのかなと思う。
キーボードを打っている夕方6時現在、痛みはまったくない。
ただし枕元には先生からもらった痛み止めを置いておこうと思う。

女性2閣僚が辞任したようだ。
なんか損したのは攻めた側のような気もする。
国会がスキャンダル審議機関みたいになっているこの国で、国の行く末を牛耳っているのは結局東大法学部出・国家公務員上級職のひとにぎりの国語堪能者なのかしらね。
国語堪能とはきちっと見つめれば国語堕落推進委員会のような文章作成者でもある。
やっぱり中国官僚制のミニチュア版国家/にっぽん、ということだろうか。
カネ出せ、カネ出せと騒いでいるのはだれでしょう。

選挙っていったいなんなんでしょうね。

2014年10月18日土曜日

疲れて

8時頃寝ると必ずと言っていいほど3時間後に目が覚める。
そのあと浅い睡眠の夢観劇と短い覚醒の繰り返しとなる。
これがけっこういやではなく、楽しんでいるのが最近である。
夢の内容によってはこういうのは困ったことであるが、昨今はそういったやっかいな夢はない。
他愛もない日常の出来事・会話といった程度で、出演者もあたりまえの身の回りの人からはじまってどうみても組み合わせとしてありえないものまで登場するわけだが、覚醒の後また続きが見られたりするものである。
これが"こころの平穏"を暗示しているのかどうかはわからない。
不安・不満のかたまりであることは世間のひとと似たようなものだとは思う。

刈り取りをしていると必ずといっていいほど、さやの大きさ、さやの付き方(ボディの上のほうにかたまって付くとか上から下まで均等にばらけて付くとかいったこと等)が異なるものがいくつか混じっており、それが変異なのか他品種の混入なのか悩んでしまうのだが刈り取り・収穫でなるべく分けて集めようとしているがこれから一気に葉っぱが落ちさやが黒ずみ茶色になってくるといちいちそんなこと・・・ということに例年なりがちなのだが、原点に戻ってきちんと区別するように努力したい。
そんな中でも九州のXは枝豆としては絶品だが、そのボディの育ち方が困ったものでひょろひょろで収量も少ない。特にボディの下の方から枝が折れるものがほとんどで刈り取りはやっかいである。折れた複数の枝がべたっと地面に広がってしまいさすが最新のコンバインでもあまりにも地面に近すぎるのでどろだらけになること間違いない。
でも豆腐にしてもほわっとしたふくよかな味で捨てがたいものがある。
でも収量が非常に少ない・・・虫に食われるというわけではない。そもそもさやの付く数が少ないのである。
こういうのは企業ベースではやらないだろう。

2014年10月17日金曜日

もう枝豆も

終わりかな。

オークションでおもちゃカメラ(といっても、1-2万円は当初していたんでしょうが)、つまりオートフォーカス、自動露出の"ばかちょんカメラ"というやつですが、10台500円で落としました。送料も1000円。
さっそく電池を入れて動作確認。8台は完動品でした。レンズもきれい。ただしみんなズームなのでいやしいスタイルです。最低焦点のまんまで見るととてもスマートなんですけど。
しばらくこれで遊んでみようと思います。
この手のものはフィルムカメラ最後の大量生産・低価格のかせぎがしらだったと思いますが、たいしてつかってやりもしないうちにデジカメが出現してしまい捨てられてしまったものでしょうね・・・もちろん、カメラをゴミ箱にすてるひとはいないでしょうが。レコードや本などと同様、ゴミ箱に捨てるのは躊躇される品目の筆頭にあげられるでしょう。
フィルムが日本で生産されなくなるのがいつのことやらわかりませんが、そんなに遠い未来のことではないでしょう。でも真空管がロシアや中国で生産されているのと同様こちらも生産されるといいのですけれど。DPEはおそらく向こう2、30年はネット経由でお願いできるのではないのかなと考えます。
作るだけつくっておいて、肝心なフィルムがないとなるとほんとにゴミになってしまう気がしますが、たぶん推測ですが、レンズを通して入ってくる画像の受光部分(アパーチュア)つまりフイルムがある部分に、デジカメの受光素子をはめ込める工夫をする趣味人が出てくる者と思われます。あまりにもたくさんのカメラが作られすぎた。捨てられない・・・。さあ、どうする。
ということで、マイナーな写真機械屋さんがそれを作ってくれそうな気もします。

それが出来なくても、固定レンズであっても本体から引っぱがしてデジカメのいろいろなアダプターに取り付けられるよう工夫して利用する向きも出てくる者と推察されます。
こんなこと考えるとカセットテープレコーダーやオープンデッキ、MDといったものも新たに作る人が出てくるかなー・・・これは無理かな。
機械式・・・、というのが永遠に続いていくであろうものは今や精密機械では時計だけになってしまったのかしら。

2014年10月13日月曜日

前回の台風は

一週間前で、風も雨もたいしたことはなく・・・ただし南の方、つまり神奈川県等では土砂崩れで被害があったようだが、このへんは雨も風もさほどではなかった。畑もたいした被害はなかった。
今回のはこれから深夜にかけてだが、予想では風が強烈な予想だ。
大豆もだいぶ倒伏してしまいそうだ。


テレビで1964年のオリンピック、バレーボールの決勝戦をたぶんビデオ録画と思われる映像で凪がしていた。もちろんダイジェストではあったがあたかもライヴでやっているかと錯覚してしまうほどわくわくしてしまい思わず「それ行け、あちゃっ、よーし」といった感じで50年という時間の流れをふと忘れてしまっていた。
接戦の金メダルかと思っていたら3セット続けざまに取ったストレート勝ちだった。
選手がブルマーだったのに懐かしさを覚えてしまった。
そのあとやったアべべの雄姿にも、哲学者を思わせる風貌が孤高のひとを思わせた。マラソンはやはりフィナーレにふさわしい。
スポーツもカネにまみれるようになり、オリンピックの運営自体が商業活動みたいになってきてしまった昨今だがわずかな時間に流されたこの映像はさわやかな風のように目の前を過ぎていった。
葛西さんもアべべももう亡くなっていたと思うけど・・・。

きょうは久々に、昼間から寒さゆえの長袖を着た。
もう秋か。
まもなくあちらこちらで大豆の葉っぱがいっせいに黄色くなり始める。
なるときは一斉である。蒔く時期がひと月ずれていてもそうである。
早生、中生(なかて)、晩生と工夫して分けてもできあがりは極早生を除けばどういうわけかみんな同じになってしまう。


2014年10月10日金曜日

わずか一日で

畑はその風景を変えていくようだ。
気温の差がいっきに豆をふくらませ、さらに葉っぱを黄色くさせて枯れる態勢にに入っていく。
すずしくなってからはその変化が激しい。
今年は枯れるのが全体的に早いような気がする。

夕方帰ってくると、軒先に谷中ショウガと丹波の黒豆の枝豆が。川越のごろちゃんが置いていったらしい。
夕飯できょうも枝豆4種類。
まだまだ幾種類かは大丈夫のようだ。
丹波の黒豆はややみずっぽかった。
もう少し置いた方がほくほくするだろう。この豆は「やや未熟」はだめなようである。ピークのほうがいい。

2014年10月9日木曜日

きょうも刈り取りのかたわら

ひとにあげる枝豆もぎをしました。
ここ2,3日というわずかな時間の経過で多くの品種がことごとく「ピーク」に達していることを確認しました。味のピークは過ぎているといえます。今の我が圃場の枝豆は市場に出回っているのと同じレベルまで下がっていると思います。
すべてとはいいませんが、おおくの人が目隠しテストで賛同するであろう「味のピーク」は8分目くらいがほとんどではないかと思います。
もちろんピークの時が味のピークと重なるだろう、というものも少しはあるのですが・・・。
お月見在来2つのうちもうひとつのをきょう5さやだけ食味。
なんとアセチルピロリン臭がするではありませんか。
目の色は白か薄い茶色のようです。
でもたしかタネは青豆ではなかったと記憶するのですが。

それにしてもひと株に付くさやの数はなさけないほどであるにもかかわらずさやの成熟がぱらんこんぱらんこんのまちまちで、長い期間にわたって枝豆を楽しめる長崎・熊本のある品種はさっぱりとしながらも上品な豆あじをしっかりと感じさせる名品種であるのを感じます。この品種は収穫するとつぶの大きさがまちまちでいろんな大きさが出てしまい、いちいち選別しないでそのまま検査を受けると"一粒一粒はひじょうに美しい扁平色白黒目の粒"であるにもかかわらず、規則により丸合になってしまいます、・・・つまり大きさ不揃いということです。まだ数回しか豆腐にしたことがありませんが、ブラームスを彷彿とさせる(交響曲1,2番かな)重厚な"味のひびき"をもった山下君からすると超一級品の品種であります。
・・・枝豆がうまいのです。
たぶん欧米で流行している"edamame"ファンにはこの"美"はわからないと思います。
ひとに枝豆あげられるのもこの品種を除くと、選びに選んで、あと一週間ということでしょう。
ほんとに刹那の食べ物です。

2014年10月8日水曜日

ベランダで正座しながら

お月様をながめていました。
お月見在来をさかなに「・・・フリー・ビール」というのも無粋かしら。
デジカメの使い方がむつかしく・・・というよりふだん大豆しか撮ってないので、
やりかたの最低限に達するまでが大変でした。
前回は父の亡くなる一週間くらい前の12月はとても寒い夜のことでした。
あのときは「たまごの黄身」みたくぶよぶよ感を想起させる異様な雰囲気を持っていましたが、
きょうのはなにか無気力拍子抜けな色彩・・・色彩なんて関係ない、感動のない風景とでもいうのでしょうか。
さてさてまたベランダで正座してシャッター押しましょう。

2014年10月4日土曜日

葉っぱが黄葉した

ものを少しばかり強制刈り取りする。
これを毎日ひっくり返しては、かびが生えないように注意しながら乾かしてやるのが肝要である。
枝豆最盛期。
いっぺんにいろんなものができあがっていく。
豆腐にするのが目的の大豆栽培だが、枝豆はおおきな知的副産物となっている。
ほとんど我が国で現在栽培されていないものばかりで、ある種の優越感にひたっている。
打田さんの"静かな山"に登っているときの気分に似たものがあるのかなと自負しちゃいます。
枝豆はぱんぱんになった"ピーク"ではなく、8-9割"できあがり"がやはりいいものと思う。
きょうは5種食べたが、久しぶりの新潟県柏崎収集の"サカナ豆"がうまかった、・・・これはやや陳腐品種かもしれないがそんなには出回っていないと思う、アセチルピロリン臭がかろやかな甘い豊かな豆あじの逸品である。虫がやや多かった。

2014年10月3日金曜日

毎日ここちよい

陽気が続く中、きょうはひさしぶりに暑かった、・・・ので長袖でいた。
多くの品種が枝豆"適"の状態に達する。"適"とは"やや未"という意味でもある。
八百屋さんにあるようなぱんぱんに身が入ったものではない。
今朝方八百屋さんで東北の"秘伝豆"が売っていた。この量だと他の品種で300円台くらいのが秘伝は690円していた。ついこないだまでは知り合いとか通販でしか買えなかったものだが、一般に販売されるようになったらもう要らないかなとも思った。はやりそう、になったらすぐやめることだ。
はやるものは自分はやらない、いやいや"はやってしまったもの"は自分はやらない。
ひとまねはこっそりとやって、"事実"を確認するだけでいい。そんなものは商売にしない。

アッバードの『春の祭典』CDが物置片付けをしていたら偶然出てきた。
これはもちろんLPでも持っているが聞きすぎて傷だらけ、しかもカビはえになってしまったのできょうは子守歌にこのCDを聞こうと思う。
演奏の内容は自分にとってブダペスト響を振ったエルデーイのFM放送録音版が窮極にあるので、Abbadoのように現代録音を意識しすぎた感じの演奏には・・・?というところなのだが、一時夢中になっていたこともあるので若き日を振り返ってということで聞き直してみようと思う。
Abbadoは今年亡くなったのかな。自分の青春時代の大物(いい意味でも悪い意味でも)指揮者はもうだれもいなくなってしまった。シャイーのデビューが自分の20代・・・、というかシャイー自体が自分と同年代なのでがんばってくれているといいのだけれど。60歳ならもう巨匠と呼ばれてもいいころだろう。

おいしいぼたもち、おいしいコーヒーで春の祭典。
大豆はちらほらと黄葉してきた。
一部種取り用に強制刈り取りを始めようかなとも思う。
絶妙なアンバランス、いやいやインバランス。imbalance。imはフランス語だと"アン"なのでこういうことになるのだが、英語ではunbalanceよりはimbalanceをよく使うので、フランス語源というかラテン語語源を不釣り合いの意味には選択していることになる。
英語は語尾変化がないかららくちんだという向きもあるけれど、現実にはいろんな言語のちゃんぽんということもあり語尾の屈折の簡素化などでかえってわかりにくいところが多い。さらに見方を変えると"語源"探索がとても楽しい言語でもある。
すぐれた言語、劣った言語というものが"ある基準"によって選定されることもたしかかもしれないが、それはあたかも枚数の多いレンズが優秀で、一枚(単玉/たんぎょく)、二枚(ダブレット)、三枚(トリプレット)、そして3群4枚のテッサー・タイプといった原始的レンズたちは劣等だといった選別基準とある点で似ているのかもしれない。
複雑なのがいいとは限らない。
ガラス一枚の光量損失が75パーセントということを考えると、ある意味では窮極のレンズは"一枚"である。
話が飛んでしまったが、言語の優劣なんて考えない方がいい。
主語が要らない日本語も、それはそれで"価値"であり、主語が示されなくても意味が通じてしまうところにおおきな意味・価値がある。主語が示されないで誤解をまねくと騒ぎが生じるような公的な文書ではきちんと主語を書けばよい。生活で使う言語は継続すべき伝統はきちんと継続していくべきだ。こんなことまでマッカーサー流にしてもらいたくない。