出走馬表の親馬に気をつけてみていると、雌はまちまちなのに雄は7/16頭がディープインパクトであった。血統で支配されている世界のようだけれども、人間界も・・・ただし一度とんでもないことが起きたあとの事だと思うけれども・・・・こんなふうに、血統・"優良"遺伝子で選別される時代がやってくるのだろうか。
大豆はひとまず休止で、本業の年末態勢に入る・・・専念する。
あと、おおそうじ。
きょうは植木屋さんが年内片付けきれなかった家の裏部分の伐採をやる。
神棚の榊を入れ替える。本榊が3本あるがまだちいさいので、そう頻繁に枝は替えられない。
中里さんのところで買ったインドネシアの神山ピーベリー・・・というコーヒーを淹れてみたがお店で飲んだものとは別物の味がした。ただし特徴的な"あの味"はかすかに感じられたが。
やはりやかんの太い口ではだめなのかなと思い、1900円のコーヒーケトルを注文する。鶴の首みたいな細い口。
武澤先生の『大仏はなぜこれほど巨大なのか』(平凡社新書)を読了する。ひと月前にいただいて、ちょい読みかけたまま放置してあったがきのう一晩で150ページ読んでしまう。
こういうものの見方をもっともっと早い段階で知っていたなら・・・とは思うのだが、よく考えてみるとこちらの変成も重要な意味をもっているのでやはり物事は今目の前で起こっていることをすなおに受け止め解釈しなければならない。
もう少し早くやっていれば、とかもう少し早く出会っていればなんていうものは意味がないのかもしれない。
歴史の"もし"議論みたいなものだろう。
60から始めた"著作業"はけっして"60から突然始まった"というものではなく、それまでの多くの体験・蓄積から自然にわき出してきたもので先生の建築という世界から築き上げた立体・社会・芸術をみる力が本の端々から感じ取られて驚嘆するばかり。
職業から教わる、とはこういうことかと真剣に反省する。
エリアーデの日記を昔読んでいたことがあるので、このほんの随所に出てくるエリアーデへの指摘があらわれるとうれしくなっていたのだが、電話で聞くと20のころやっと出始めた翻訳を読んでいたとのことで、建築学徒が宗教学の碩学の本を読んでいたとはふつうの一級建築士とはやはり毛並みが違っていたのかなと思う。彼のお父様が銀座で個展を開いたとき『遊心』という油絵に完動し、その後ウチの業界のある"クラブ"の名前に流用してしまった。
親子違うようでいてやはり共通した者をしょっているなと感じた。
こういう本を読むとなにか大きな得をしたような気になり・・・いやいやほんとに得をしたわけだけれど、生きている幸せのわくが少し広くなったような気がする。
グリーンブラットのルクレチウスこそ出てこないが、古代の哲学者の宇宙の始まりの話も武澤先生の話に出てきて、こういう書物との出会いも人間同士との出会いと同様いやそれ以上に大切なことがあるものだなとつくずく感じた。
Nさんの紹介していた『グローバル経済の誕生』はきわめて有名な本で、名前だけどこかで聞いていたけれど読んでみたい本だ。
年齢的にもう乱読もできなくなっているので、・・・なんてえのも弁解かな・・・ほんとに活字から縁遠くなってしまっていて自分の怠惰を恥じ入るばかり。
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