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2016年3月17日木曜日

きょうは彼岸の入り

だったんですね。
座敷が片付けてあったりしたので何かと思っていたらさっそく3家挨拶に来ました。


雑用で忙しくあっという間に夕方になってしまいました。
清原保釈。
トンネル事故。
シリアで日本人記者拘束。
・・・・・。


沖縄から電話。
小平から連絡。
北海道から電話。


平凡に過ぎていく一日。
桜ももうすぐ。


夕飯時にテレビを見ていると、出演者の作になる俳句の添削と、生け花の添削。
日本の永い時間を背負ったふたつの文化。
ときどき見ていますがおもしろいです。


俳句は普通の庶民にはほとんど縁無く一生を終わってしまうのでしょうね。添削する先生のことばがおもしろく、こういったものに決定的な正解というものはないのでしょうが文章の書き方とかことばのコンビネーション、トートロジー(同語・同義反復)の禁止、破格・・・等々とさまざまなことを教わります。型ばかりでなく型の意義まで感じ取れます。
英語の早期教育、しかも挨拶程度になんの意味があるのか考え込んでしまいます。


生け花も同じことで、とてもおもしろいです。盆栽同様「生きているものを人間のわがままに合わせて組み替える」作業に非常に不快感を感じるひともおおいでしょうが、世にある芸術性を帯びたものはみんなこのたぐいであることを思えば人間の営みそのものの意義を考えざるをえなくなるしくみです。ひとが「いきている」とは実にやっかいなことではありますが、生きていること自体が喜劇であり語るに値するものなのかなと感じます。・・・なんてこといいながらも、ひとの生き方にけちをつけてばかりなのが人間の性なのですが。


お茶の作法も外部からみると「形式そのもの=うんざり、非創造そのもの・・・」とくるわけですが実際には多くの仕草のよいところの集大成なのでしょうね。一時反抗して常道をはずれて「個性的、創造的」を標榜してその道を邁進しても知らず知らずのうちに「型」にどこか似ていってしまうことが多々あります、すべてそうだというわけではありませんが。
親に師匠に逆らって自分の独創性を誇示して生きていてもいつのまにか先人と似たようなものに成なっている自分をみてくすりとしてしまうことがたくさんあります。


年取ったのかな。







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