更新していませんでした。
午後畑をかきまぜているとぽつぽつと雨。
とりあえず3反片付けて家に。
やや小降りとなり家の裏の陸稲とささげを見に行きました。
陸稲まったく出ていません。
ささげはすでに出ているとはいうもののだいぶはとぽっぽにられていました。
引っこ抜いて遊んでいるだけで、こちらをばかにして笑っているようです。
そこで今年初登場の"釣り糸(テグス)張り"をしました。
どのように張ったらいいのか知識がないためとりあえず畝の上に張りました。
こうするとハトがたとえ一回目は着陸したとしても離陸の時に糸にはねをひっかけたりすると、羽をいためたりの危険を学習しその次からはそこの畑に近づかないということです。
複数のひと、複数の地域のひとにお聞きしたのでたぶん大丈夫なのかなと期待しているのですけれどもね。
一番完璧なのはもちろん高価なサンサンネットをべたりと地面につけてある程度まで発芽後そのままにしておくことですが、順番に移動していくのがひとりではとても大変なのです。それにサンサンネットが高価なのを知っているやからがこれを盗んだりするのです。
うまくいくといいのですが、大豆シーズン始まり前にささげで実験できるということでラッキーでした。だめだったらまたサンサンネット追加購入となります。100メートルで1.8万強(税抜き)つまり2万というところでしょうか。
寺田寅彦のエッセイを朗読で聴いています。
彼は五校に在学中に漱石の授業を受けており、それが縁で漱石一門に列席していたというわけですが、そのときの授業のことなどがおもしろく聴けます。
「そんなこと君、(小説を)書いた当人にもわかるわけないじゃないですか」とやたらと質問をしてくる生徒に向かって返答している話などおもしろかったです。
大勢ひとが居る前でやたらと質問するという"人種"は昔も今もいるようで、自己顕示本能の典型なのかもしれませんね。
また『茶碗の湯』というエッセイもおもしろく、茶碗の中に湯が入っているというありふれた事実の中に"蒸気"、"光の屈折"・・・といった複数の科学現象があるだよ、という話なども漱石から学んだことは確かでしょうが漱石自身も弟子から教えを再確認させられたようでいてさぞかし「えへへ」といったところかなと思います。
ここで一連の漱石関係の朗読を聴いていて思ったことは評論家ということばをあれやこれやと考え込んでしまいました。
絵はまったく描けないのに絵の読み込みはするどいひとたち。
楽器はひとつも満足にこなせないのにこれまた読み込みの表現をことば豊かに展開できるひと。
食い物評論家。
骨董見識家。
・・・・・。
ことばで生きている人たちにきわめて疑問を感じてしまいました。
絵を例にとるとたぶん、作家が意図していないような崇高な理念・重い、線・かたち・音楽性・論理性・・・・といったむつかしいことをじょうずに"説明、よいしょ"され、作家自体が「おれってこんなことも無意識のうちに我が手がみちびいてくれたのか」なんて思ってしまうことが、多々あるのではないかと思います。
描いている本人の意図は少しそれに近いところにあったとしても、りっぱな"弁士"の応援に「そうだ、そうだ」となってしまうこともあるのかなあ、なんて思ってしまいました。
このことは絵についてなんの見識もない山下君としては思い上がり、僭越な見解かもしれませんが・・・。
で食い物評論家なるもののいうことはおおむねあたっているのかなと思います。
作っている当人はそんなに高邁な理想のもとに制作しているわけではないのにたいそうな能書きをプレゼントしてくれています。
制作者は有頂天になってしまいます。
ここから堕落が始まります。
ことばはあまり信じなくなってしまったのが昨今の心境です。
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