近所の家庭菜園のひとにモロヘイヤを今年はよくもらった。
きょうももらってすぐゆがいて食べたが、前回のは余ってしまい水につけておいたら下の方の葉っぱは枯れかかってきてはいるというものの、先端の方はいきいきとしてというか新しい葉っぱが出てきたのかしら元気に生きている。
モロヘイヤって"木"なのかしら・・・?
なら、挿し木でも・・・。
友人が同人誌をおくってくる。
60ちょいとすぎで親の始めた会社をたたんでしまい、物書きに専念・・・なのかな。
60くらいってみんな「残された時間、ほんとにやりたいこと、・・・」を意識し始めるのかしらね。
自分は新規に何か、というわけにもいかず亀さんの歩行よろしくのろまなので、今までやってきたことをそのまま続けていくしかない。
ただめちゃくちゃに行き当たりばったりではないので合目的性はあるのかなと思う。
中途半端に終わったら終わったでいい、夢をいだいたままこの世におさらばなら幸せかなと思う・・・決して「くやしい、残念」ではないと思う。
敬老の日を前にこんなこというときらわれるかもしれないが、老いて世間とのギブアンドテイクが終了してしまった"老い"にはただ苦痛しか感じられない。ただ"受ける"だけ。
100歳までただ生きつづけていることだけでもたしかにすごいこと・かけがえのないことかもしれないが、それはそのひとの家庭・個人的な問題である。社会にとってたいした意味はもたない。
平均余命の世界的上位保持にやっきとなっている行政は狂っている。"徴収"したカネは、平気で大盤振る舞いできるのだろう。
人間が社会的に意味を持つのは、世間とのギブアンドテイクができる間だけのことである。
きのう・おととい身内の若年性痴呆症でなくなったものの葬儀に出ていて複雑な気持ちになってしまった。じぶんもひょっとしたら・・・、なんて心配してしまう。昨今の物忘れのひどさを考えたら・・・。
落ち着いて知的活動・判断ができなくなったら、そこで自分の人生は終わりでいいのかなと思う。
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