分けてあげたお客様のところのパートさんから「ことしもお願いね・・・」と頼まれました。
あてにされるとうれしいものです。
ところで去年鹿児島の黒酢に漬けた我が家のらっきょうはちょうどいい塩梅の触感・食感となりました。毎日いただいています。
ところでこのパートさんによればらっきょうを食べ終わった漬け汁にかぶをスライスして漬けるといいとおそわりました。なんとなく味が想像できます。
去年はドレッシング替わりにサラダに使っておいしかったのをおぼえています。この汁自体も価値あることがわかっているので今年は汁目的でさらにたくさんのらっきょうを漬けてみようかと思います・・・ただし"ひげ取り"が大変で右手の爪がいたくなってしまうんですけれどもね。
ゆすらうめ酒もいい具合につかっています、これは美味ですよ。
午後市役所に行きました。
大豆のことと、認定農業者応募書類、農地を借りられないかと農業委員会へ行きました。
トラクターに乗っかって行ける畑一枚3反が近所にありました。少し考えてみようかと思います。
ブッカー・リトルというらっぱ吹きのアルバムをきょうは聴いていますがうるさそうに見えて楽しかったです。消音器を使わないでばっちし吹いていますがそのやわらかで制御されたひびきは心地良いです。彼が他ではどんな演奏をしているのかわかりませんが、トミ・フラやなんとスコット・ラファロとやっているこの盤は自分のお気に入りとなりました。1960年ですからモノラルなんでしょうかね、耳が悪いので識別できませんでした。スコット・ラファロは20代で亡くなったはずのベーシストですが彼を知る上でも貴重な一枚でしょう。昨夜見た高倉 健がたくさん唄っていた「網走番外地」の一番最初の映画が新鮮で今朝もふわふわしていたのですがこのブッカー・リトルとスコット・ラファロの盤がそれを増強してくれました。
人間に「不良」という言葉を冠することには昔からものすごい嫌悪感を感じていました。
よく考えると人間はみな不完全、不良いきものであるはずで「完全・完璧」などというものはありえないはずです。いきものつまり有機物ばかりでなく金属・無機物でも劣化・酸化といった品質下降はあたりまえのこと。
不完全を調製しながら生きながらえていくのが人間なんでしょうね。
前にもいったカメラのライカとツァイス・イコンの差みたいなものです。
川崎の事件はまだほとんど内容がわからないような状況ですがおおまかにいえば古典的な「不良」といわれるグループ内のごたごたなんでしょうか。
家庭や学校で居場所が無くなった子供たちはどこへ、と考えると普通に安穏に暮らしている自分たちはほんとに責任がないなどといばっていられなくなってしまうのでは?と自問する一方人間は適度に気配りしない、無視する、自分の好きなように避難するということで生をつないでいるような気がします。適度にいいかげんである、ということです。
やや道がずれてしまうというひとたちはすごく敏感なひとたちだと思います。
貧困から生まれた「網走番外地」みたいな純朴な犯罪者たちとはやや異なった様相を呈している犯罪が多い昨今ですが、今日食べるものの心配をしなくても済むような豊かな社会になってもあるいは医療の心配をしなくても済むような福祉天国の国家になっても"ずれ"たり"逸脱"してしか生きていけないひとたちがいるのです。
そういうひとたちは"まちがっているひと"たちなのでしょうか。
なにが違うのでしょうか。
何が欠けているのかな。
なにが多すぎるのでしょうか。
何が必要なのかな。
"ずれ"や"逸脱"を排除することはできません。
深く考えるひとほど傷つきやすい。
でもそれを救えるのもひとしかいない。
出会い、これだけが救いとなるのか。
上場しても"家族"などというものを持ち出してきて見苦しい一幕を"公開"している。
親子というのは"出会い"以前の環境かもしれませんがそれももっと掘り下げれば"出会い"かしらね。
小市民、鈍感、わがまま・・・やはり自分にはこれが財産だったのかしら。
そんなこといいながらも紆余曲折、人並みに親のこと死んじまえとか死んじゃいたいなんてなんども考えたりしましたけどね。陳腐な人生だと思います。
そんなこといいながらも「まだがんばれる」なんて欲張ってます。
集団になったとたん人間て考えられないほど見苦しい行為をするもんなんですね。
デモクラシーの"デモ"、は日本語の"でも"を冠して考え直すくせをつけるべきです。
大量や多数、が必ずしも正しく適切であるとは限らないというデモクラシーの大原則を肝に銘じなければなりません。
やや酔っぱらって長くなってしまいました。
もう寝ましょう。
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