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2012年3月12日月曜日

国全部がゼロになる日、自分がゼロになる日

ということでおとといG先生とおしゃべりをしましたが、一生に一度あるいは百年に一度ぐらいの割合で我が身にふりかかってくるものなのかもしれない。
部分的にこういうことが起こってしまうのが天変地異一般だが「何で自分だけが・・・・」いやそういった気持ちははるかに飛び越えてしまっていて「何もなかった」我々には想像すらできないこころの状態にあるのかもしれない。
あまりにもきれい事の「絆」コールも、何もなかった地域のエゴ発言・姿勢には愕然としてしまう今日この頃である。
こないだの親戚の葬儀では火葬場をもたない自治体というものがこんなに多いものかとあきれてしまった。
所沢も近隣の一部を廉価にて請け負っているらしい。
本来なら市民価格の10倍程度はとってもいいと思う。
税金払っている市民が2週間という一部腐敗が始まる時間に入りかかってやっと執行という状態なのに・・・困ったものだ。
他人の苦しみは所詮頭では理解できない、想像力で推し量ることしかできないものだが最低限何を協力したらいいぐらい感じ取れるはずだ。
去年父と、津波の映像をみながら「全部がゼロ」と「部分がゼロ」ということで偽善者ぶった自分が父をどなってしまったことを深く悔いた3.11であった。前の日の永六輔が東京大空襲の法要の予定を変更して東北へ、というこをいいかけたとたんに嗚咽で運転中のの自分がびっくりしてしまいひやっとしたこと、それとG先生宅でのお話とさらには講演会での東京大空襲で死んだ我が子を背負って避難している母親の話しも思い起こされがつんときてしまった。
自分は善人であると自分で認めたいがために何も行動しないのに「善人発言」で自分を救おうとしている自分が恥ずかしかった。
父はずーっとずーっと広い心で「部分がゼロ」と「全部がゼロ」を語っていたのだろう。
この国にあるいは自分に「ゼロになる日」がいつ来るかはわからないけれど十全なかまえをして待っているのか、そのときはそのときで開き直るしかないのかわからない。
すくなくとも「部分がゼロ」の"枠外"のひととしては仕事上、私的部分でできることはいっぱいある。
きれいごとを裂けようと思うとまた孤独になりそうだ。

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