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2014年3月29日土曜日

朝からあたたかく

厚手の長袖は脱ぎたくなってなってしまう。
『ごちそうさん』良かったよ。典型的なメロドラマだけど何回か涙を流しながらみていたこともありさわやかな印象とともに終わった、終わったと言うよりこころのなかで続きをやっているみたいだ。

国全体がまだ貧しかった頃の幸せ探し。
食べ物をこんなに大切にしていた時代があったんだな。

家の中にものが増え、形のないサービスも生活を豊かにし、税金を使ってばらまかれている"福祉"とやらも暮らしの彩りを加える一助となっているかどうかしらないが、"幸せ感"はずーっと下降線にあるような気がする。
若い子たちに仕事がない。
夢がないと仕事がないの相関関係はあるのかどうかわからないが、これは大変なことなのだとみんな考えなければならない。
小泉首相を起点としてすべてが狂ってしまったというより、グローバル化という現象がすべての根源なのかもしれない。
豊かな国と貧しい国の経済の平準化。上から下へとゆっくりゆっくりと浸透していくこの現象。企業のじんぐり海外移転。韓国、中国からベトナム、ミャンマーそしてインド、そのあとはアフリカ?とじんぐりじんぐりと移動していく。それとともに下位にあるものの生活レベルが上がる。企業が出て行った上位の国は労働力が余る。上位の国が下位にある国を搾取する構造が弱くなっていくにつれて上位の国の内部では稼ぎの格差が拡大していく。悪循環である。いずれ行き着くところまでいって何がおこるのだろうか。
政府が国を支配しているのではなくグローバル企業が国を手のひらの上でころがしているのである。
「・・・の企業の社員です」ということが「・・・国人」というアイデンティティに優越する日が来るのかもしれない。そんな中で領土問題というのはまだまだクラシックな問題なのかな。

山川の教科書の最新版をみていると、これじゃあ子供たちは卑屈になるよと、つくずく感じてしまう。歴史と歴史教育とは別問題なのかもしれない。しかし純粋に学問的にとか客観的にとかはしょせん無理なのかもしれない。物理や化学と違って価値観を超越した論理学の世界とは隔絶している。
ちょっと異質かなというと、生物学なども最近は「・・・の(目的の)ために・・・という形質ができてきた」などという言い方を平気でするようになってきているので、生物学の考え方自体がかわってきているのかもしれない。物置きにあった生物のテストの答案をみていて、あのころはたしか足・手・目・・・が左右対称に2つあるのはなぜとかしっぽがあるのは・・・のためとか、・・・・といった目的を生物学に持ち込んで考えてはいけないなどと口をすっぱくして教え込んでいた教師のことばを思い出したりした。目的ということばには価値観が紛れ込んでいるような気がする。でもこういうほうが"見えざる力"などというものを考えやすくなり実に人間的なのだが。
物理にも自分らが学校へ通っているころはマルクス主義的物理学なるものもあり、あっけにとられてもいたものだが。

100の国があれば歴史の教科書は100ある。
それぞれがそれぞれの都合のいいように歴史を語るのが歴史教育なのだろう。
大人たろう、客観的たろうとしている姿勢がばかにされてしまうのが国際政治なのかもしれない。
バベルとはすごいたとえだなと思う。

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