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2014年4月28日月曜日

きのう知り合いから

今年初ののびろをもらう。どこでとってきたのだろうか。我が家のはまだ増やすことに専念したいので消費せず。株分けしようと思う。

小保方さんの事件にまつわり関係研究員が別件で"切り貼り"の疑いが出て、調査委員を辞退するとかの報道があったけれど、写真というものがパソコン上で簡単に変形・変更・合成ができるようになったことを考えれば当然の成り行きなのだろうか。最終的には発表・提供するひとの職業的良心・義務感にたよるしかないことがらなのだろうがノルマだとか収入だとか名誉欲が目の前にぶらさがるとこういうことになってしまうのだろうか。
刑事事件ではこんなパソコン操作の以前から合成写真云々の可能性からすぐに100パーセントの証拠にはしない習慣があったと思うのだけれど、それとて普通の人にはできる芸当ではなかった。
便利さがひとの"良心"を汚染してしまっている時代なのだろう。

問屋さんの話によればインドでも商社が大豆栽培をしかけようとしているが、社会資本(つまり鉄道・道路)の未熟さゆえになかなかうまくいかない、とのことだった。赤道近くの高温地帯で収穫されても移動に時間がかかりすぎると大豆はすぐに味・力が劣化してしまう。力とは粘りとか凝固時の凝固反応に対する誤差の幅の大きさ(つまり許容力ということである)を意味する。
祖父の残した昭和15年の地図をみると朝鮮半島・満州・樺太には相当数・距離の鉄道がしかれている。国内を見ても全国のかなりの部分が鉄道でつながっている。
パックスブリタニカが16世紀以降アジアを侵略して、置きみやげしていった文化遺産てなんだったのだろうか。教会だけか。教会の使命としてアジアを文明侵略したのか。侵略の口実を宗教にもとめたのだろうか。
今、1700年代1800年代のイギリスの物書きたちの書いたものを読んでいると、こうした"自信"の背景にある搾取されてきたひとたちの涙を思わないわけにはいかない。
文化という者はおおむね・すべて底辺の搾取の上に築きあげられたもので、これは共産主義といえども同じことだ。文化とは高貴なものだ。そもそも平民・賤民が手にすることができなかったものが、じわじわと下に下がってきて自分らはそれをただ同然で享受している。自分が今こうして楽しんでいる事柄・サービスはみんな昔のひとたち・遠くのひとたちの犠牲の上になりたっているものだ。絵・本・食べ物・車・電気・・・・・、こういったものの"所有"が、つまりあまねくこういった冨の恩恵に浴せる社会というものはいずれたちゆかなくなる。上から下までという言葉が意味をなさない平準化した社会とはつまりこの世の終わりになるときだと思う。
つまり格差によって人類は平穏を保ち、あるいはその格差によって平穏をゆさぶられしながら道を歩んできた。
すみからすみまで豊か(というよりも、食うにこまらないといったほうがいいだろうか)な世界とは・・・?
といってもその前に一悶着あってやはり、格差によって社会や国家間はバランスを保っていくのだろう。
りこうなひとはこれを具にしてひともうけ。清い人はぶつぶついいながら霞を食って生きていける。おおかたはおおきな波にのまれるのにまかせてその日・その場ぐらし。
ひとは孤島では居続けられないものだ。
なるようにしかならないのだろう。

戦前はあちこちで繊維工場がありそれらはおおきな繁栄を示していた。
富岡製糸場が世界遺産に認定されたが、戦前の織り屋さんから一気に没落してしまったという家系のひともたくさんいて、思いは複雑だと思う。
織機を作っていたトヨタは織り屋さんそのものでなかったことがその後の発展につながったと見られるがおおきな努力と鋭く未来を見ていたものと思われる。
これから先、日本はどういう"ものつくり像"を描いて努力していくのだろうか。


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