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2014年4月29日火曜日

小保方さんに続いて

ついにきょうは山中教授まで写真のことで問題になっていた。
きのう写真のことを書いたばっかしだったので、"やはり"かと思った。
ただし中身の問題つまり本質そのものの問題ではなく、"受けねらい"、"見栄え"のために写真を修整したようである。この学会ばかりでなく、あらゆる分野で写真の"修正"は行われているようだ。
コントラストとか切り取りのような単純なことならしかたないんだろうが、合成のようなことは困った問題だと思う。写真がかならずしも"証拠"としてますます信用できなくなる時代になったのだろう。映像って文章と同様なんでも作れてしまう領域なのだろうか。しかも写真や映像にはみんなすぐに信じ込まされてしまうものだ。

写真や映像に芸術性を認める、ということは現代では当たり前のこととしてとらえられていることだがこれはいいかえると、写真や映像に抽象性が表現できる・・・表現と言うこと自体がもう芸術の域に一歩踏み込んでいる・・・ということである。猪熊先生流に言えば、「具象とか抽象とかの見かけ上の分類ではなく大切なのは"抽象性"だ」ということだ。
再生細胞の写真に抽象性が必要なのだろうか。
戦場の写真ですら一瞬を切り取った一枚も場合によってはとんでもない、作者の意図したことと反対の意味にとらえられることもある。
芸術ならば作者の意図とは関係なく、その抽象性の解釈は一人歩きしていくことは許されることだ。
写真の芸術性っていったいなんなのだろう。
"事実の証拠"という役割を写真に負わせることはもはや無理なのだろうか。
事実はそれに直面した人にしかわからない。それを他者に伝えることが・・・もはや無理ということなのだろうか。

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