いて、身につまされる思いがしてしまう。
ここまできびしく言葉を吟味して読んだことは、こと自分の特殊な分野のことを除けば、まずない。はずかしい限りだ。
そもそも丸山眞男は自分らの頃は"批判してはいけない対象"とあがめられていた"神体"みたいな存在で、「なんだ、バカが」といわれるのが関の山だった。
その時代時代の権威といわれるものはみんなそうだろう。
それだけにそのシンパというか弟子たちがごますり三昧の言論界を形成し、オピニオンリーダーとはなんぞやと首をかしげてしまうことしきりである。
どんな業界でも一度権威化つまり権力と化したものは真摯に現実・事実に対峙しようとしなくなる。見苦しいレベルになると、単なる保身となってしまう。
現代だと大江健三郎、村上春樹、科学の世界や数学の世界でもあるのだろう、身近では"有機"である。かてて加えてこういうものに国家がお墨付きを与える。
みんながいいというからオラもいいと言わなきゃみっともねえよ・・・か。
現場を知らない者はマスコミの喧伝する"きれいごと"にころっといってしまう。
ことばの概念規定がきちんとしていないまま、あおりあおられるような言葉遣いをしたり現場で現実に起こったことのきちんとした証拠の確認のないままイメージを読者に自由にいだかせるようなことばの使い方は知識人のすることではない。"知的"のコーティングは10年、15年たったペンキのごとくいずれは自然にはがれてしまう。
もっともプラトンにしてもアリストテレスにしても、マルクスにしてものちのちのたたき台になるほどの知的産物は話が別。やはり時間のフィルターは必要だけれど、ほんとに頭のいいひとは見抜いてしまうものなのだとNさんのブログで感じた。
なんとなくのイメージだけのことばを駆使した物言いに警戒せよということだ。
そんなわけで"ことばに生きるひとたち"、"思考の伝達者"たちというものは一語一語、一文一文にいのちをかけて考えを組み立て・ひとに伝えていかなければならない。
大量生産の売文業とかキャッチコピー屋とか軽薄の極み領域はあいかわらず元気だけれども。
座敷のテーブルで本を読むためにお子様用みたいな椅子を買う。少し具合がいい。いわゆる普通の事務で使う椅子・机はパソコンのところにしかなく本を読むのはもっぱら座卓レベルである。年を取るとみんなこうなっちゃうのかしらね。通勤電車の椅子で正座しているおばあちゃんが笑えなくなってきた。
30代、40代のイベント屋といわれたころの資料やらノートやらがいっぱい出てきた。ノートを少しとっといてみんな燃やしてしまった。"まちづくり"のオンパレードだ。みんなインチキであった。
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