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2015年1月22日木曜日

二日間の

雨となり、すっかり体もお休みできたかなーというところですがやはり根っからのビンボー症で"なにもしていない"というのが耐えられないようです。
機械選別のものをさらにきれいにしようとブルブルとふるえながら物置で選別していたのを、こんどは場所を変えて家の中でストーブにあたりながらの作業。
結局50キロほどはやったでしょうか、・・・京都の在来種。

従軍していないフリーの戦場カメラマンや記者というものは、たしかに報酬の多い商売ではありますが、純粋この上ないボランティアでこの言葉の本来の意味を貫き通した職業なのかなと思います。
でも今回のはなんか変だなと思いました。
使命感以上に"無責任"を感じました。
ボランティア性の全くない税金を使って売名行為をしているまちづくりボランティア、自分も昔やっていた・・・これゆえにまちづくりということばがだいきらいになりました、と比較するのは戦場を駆け回るひとたちには失礼かもしれないですがほめ言葉一色で相対できるひとたちではないなと感じました。だれかが助けてくれる、という期待・想定担保付きで行動している。
携帯電話で助けを呼ぶ山登りやスノボーに似ているんではないですか。
まあこういうこと以前にテロリズム、過激主義がなんでおこるのかなということが問題ですけれどもこれはなにもイスラムだけのことではありません。
原始ユダヤ教からみればイエス・キリストは過激。アンタイ・セミティズム(反セム主義)はローマ帝国の時代からヒトラーへそしてネオ・ナチへと延々と続いている。普通のキリスト者からすれば確かにこのキリスト者たちは行き過ぎ、でも彼らからすればユダヤ人の行動規範自体が"過激"。
お互いに自分のことしか考えないのが人間の性。
これを前提にして"妥協・まとめる努力"をしていくのがデモクラシー。

宗教色がなくても過激なわがまま行動は世界中にあります。
まちの中にも"過激なわがままだらけ"です。
ホッブスの自然状態そのままの世の中になろうとしているのでしょうか、いやいや人間そのものがそういう動物性を内包している未熟進化しかできない限界をもっているのでしょうか。
中庸の訓練というものは教育によってしか勝ち得ない人間独自の問題なのかもしれませんが、教育というとすぐ"学校"のことしか頭に浮かばない我々の社会はなんと無責任な社会なのかなと感じてしまいます。
家庭、地域、学校、師弟関係、食べ物・・・。
教育の場はそこら中にあります。
すべてが軽視され、マニュアル通り・できあいの既製品思考利用・ファッション・思考停止、といった具合に自分の頭で組み立て判断しなくなってきてます。
こわいのでしょうか、自身がないのでしょうか、それともなまけているのでしょうか。
"リッチ"とはなんなのか考えなおしてみることだと思います。
ほんとの金メッキの卓上計算機88万円、どこぞでやっている宝飾フェアーで展示されているそうです。田舎もん成金。


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