大澤さんの局だからTBSだろうか、日曜日の朝こどもたちを対象にした電話相談番組がある。いじめられているひとたちの相談には涙してしまうことが多いのだが、きょうは話の途中から聞いたので脈絡はよくわからないのだが、おとなたちからのコメントが紹介されていた。子供のころいじめられていたひとたちのアドバイスのようであった。
自信をもてないからからかい半分いじめられるんだ、なにか自信を持てるものをもちなさい・自信をもてるものがあれば周りのものも一目置き評価するようになる、という意見に対して、いじめるのは「人間の弱さをそのまま受け入れることのできるこころの広さをもてないか」らで、そこのところを育てる教育が必要だとかなんとか言っていた。
こころの問題は千差万別で理由をいくつかに一般化することは困難だが、有る程度の法則はあるのだろう。
しかし「弱さを認める・・・」だけではなにかおかしい。
やはりいじめられる側が逃避できる、競争を意識しない堅気の遊び(仕事、趣味等)を持つことが必要だと思う。これが"ある自信"につながる。自信をもっているひとは一般にバカにされない、思い上がると話は別だが。
自信をもてるようになればかえって普通のひとよりワンステップ上のこころのひろさを持つ人間になるはずである。"ある強さ"をもてない人に"ひとの弱さ"をやさしく受け入れることなどできない。
実はいじめる人間はいじめている人間以上にこころの弱いひとである。
いじめは学校以上に社会に出てからもあとからあとから出てくる。
異質なものを排除する、というのはどうやら人間の本能のようである。いじめるのは人間の、というより動物の生まれ持った習性のようである。
またこころが弱いくせに強いふりをむしてふるまっている人間が、自らを安心させ優越感に包まれているようにするために、自分より下にだれかを置いておきたいがために、やや気の弱いひとたちをいじめるのも国を問わず人間の習性のようである。
これらを修正していくのが教育である。
職人といわれる職業のひとたちはおおむるあちこちでいじめられてきた経験があるはずである。
無視せよ、逃避せよ、自分の世界を深化させよ。
自分もさまざまな「通常、社会から尊敬を受けているひとたち」からあちこちでバカにされてきた。職業をばかにされてきた。
無視すればいい。
侮辱の連続でかなり卑屈になっている自分を励ましてくれたひともいる。
新制作の猪熊弦一郎先生は相原先生の先生ですが、美術館で自己紹介したときの私のいいかたが卑屈だったので怒られました。絵と違い瞬間で消えてしまうものを作る職業と言うことで・・・、逆にそのことの尊さを教わりました。
何かに真剣に取り組んでいればかならず目の前にそれなりの友が現れる。
シャネルズの田代まさしが薬物使用で裁判中だが、コンサートに出させてくれなかったので・・・、とか理由を述べていた。逃避の場所が間違っている。
うまく逃避することだ。
山頂に到達するのに目の前の岸壁を技術もないのに挑んではいけない。「正面からまっすぐに・・・」ものごとに取り組むというのはかっこいい男の美学のようでもあるが・・・。
回り道でいいから自分にできる方法で山頂につけばいい・・・・・あるいは登る山を全く別のところに求めてもいい。
世間体などどうでもいい。
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