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2011年4月26日火曜日

青ヶ島の

「鬼辛(青)」をいただく。
新潟のかんずりの"南のくに"版である。
発酵が亜熱帯と雪の中という正反対の条件で行われるわけだがどちらも名珍味(調味料)といえる。このレベルのからさでもからくないという奇人もいるかもしれないが、食卓にかかせない一品・逸品。

串田孫一の「ギリシア神話」の朗読がとびとびで録音されていた。
なんだどうせと思って聴いていたのだが、これがいい。
女性のアナウンサーだが朗読がまずいい。
そして何よりも文章がいいことに気づく。
野上弥生子さんがブルフィンチのギリシア語かラテン語からの英訳を訳した重訳版をこどものころ呼んだが途中飽きてしまって放棄。串田孫一版はあくまでも「串田孫一著」であり彼がいろいろ読んだものを咀嚼・反芻して自分の文章に置き換えたものである。
聴いてて心地よいのである。
斉藤孝の「声に出して・・・」シリーズがひところはやったが、こういった耳に心地よい美しい日本語のひびき、日本語の伝統的な型にのっとった文章を人生の早い時期にやっておかなかったことを後悔している。これは自分の怠慢プラス国の教育政策の怠慢であったと思う。
思えば「素読で・・・」という新書をずいぶん前に読んで一時期素読をやってみたりし筆で書き写したりしたこともあったが中途半端に終わる。
たしか浦和のどこかで素読教室を開いている先生のご著書だと思ったが。
幼少期、特別な感覚の持ち主である"撰ばれた"ひとたちは別にして、ぼくみたいにことばにとろい人間にはそんなにたくさんの本を読む必要はなかったのではないかと思っている。
中学、高校などはほんの数冊の本をすみからすみまで覚えてしまうくらいの本読みをするほうが、のちのちの人生の栄養・ちからになったのではないかと思う。
国語はだいきらいであった。
今は本読みは、のろいとはいいながらも、大好きである。
子供にどんな本を読ませたらいいのかな、と質問すると「興味のわくままに好きなものをよませればいい」というのが、"教養ある本好きの"お母様方・教育者の定番の答えであった(ある?)が、それは有る程度ませた・できあがったこどもたち想定のマニュアル答弁であるような気がする。
読ますべき本はある、と思う。
くだらない受験勉強のためにどれだけ人生の大切な時間を無駄にしたかがくやまれる。

いまは試験もレポートもなにもなく気ままに読める。
ただ読みっぱなしもつまらないので、語り合う友を見いだし、また文章を書いたりするのがいいのかなと思う。

スーちゃんのおわかれのことばをまた聴いたが「・・・ここにお集まりの・・・」から始まっていたんだね・・・・・。
過去のさまざまな社会活動も紹介していたが、病が彼女を洗練・とぎすましていったような気がする。
大きいちいさいの違いはあってもさまざまな形の"ハンデ"をしょって生きていくというのが人生だが、ハンデはやすりでもある。
重荷は神様のいたずらと考えてしまいがちだが、努力させるためのしかけでもあるのかもしれない。

ただ今回のような天変地異に対しては言う術を持たない。
人間の営み(現実も、魂のことも)をはるかに越える大きな力には何を言ったらいいのかわからない。無力感のみある。

脱穀3時間。
楽な作業にもかかわらず結構疲れる。
疲れるのが早くなってきた。
この夏の35度、37度が乗り切れるだろうか。たぶん暑いよ。

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