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2011年8月3日水曜日

7/25に蒔いて

発芽していない品種があり、これ以上待っても無駄と他の品種をそこに蒔く。
3枚目中耕。

すいかひとつ収穫。
プリンスっぽいメロンひとつ収穫。
あした切る。

一部猛烈な雑草あり、苦労する。
耕耘機は押すのと舵取りで筋肉痛をもたらす。
気温は低くて楽だったが疲れた。
夕方パートが「熱中症の症状のひとつに"足などがつる"ということがある」と教わる。
水飲まなきゃだめよと言われる。
なるほど。
アルコールは効かないのかな?

お店に向かう途中エデンの東のサントラ。
ジェームズ・ディーン・・・・どこかでみたことがある、・・・そうだ埼玉屋の目だ。
なにかにひたむきな・・・、そうだ、そうだ。

ガロの「学生街の喫茶店」。
この声には感激した。
昔から何度も聞いたことのある有名な曲だが、彼の声質について意識したのは初めてである。
彼はポールマッカートニーがいなくなったビートルズに参加したらすばらしい歌唱を我々に与えてくれたはずである。
声質に対する自分の好みぴったりの男性の声である。
洋楽の声楽はこのさいどうでもいい。
ほんとに心地よい声質であることに今になって気づいた次第である。

お店に良く来てくださる老夫婦とおしゃべり。
こっちが知らないのに向こうはこっちのことを・・・、というお客様でおだやかでやさしい夫婦だ。
いつも「話し相手になってくれてありがとう」と言ってくださるのだが、幸せをいただいているのはこちらかもしれない。
ありがたいことだ。

「すいません」ということばが否定的に取り上げられることが多いのだが自分はこの「すいません」をよく連発する。
交通事故などで「すいません」を先に言ってはならない、というのはよく知られた見解だが「ちょい待てよ」という感じがする。
すいません、というのは「わたしがわるうございました」という意味の時ももちろんあるが、現実のそのことばの使用場面ではもっと多用な意味のニュアンスを含んでいて必ずしも「あやまっている」ということばかりではない、いや謝っているという場面よりは他の意味で使われている場合のほうがはるかに多い。
けさも良く顔を会わす大型の運転手と荷さばき場でおしゃべりをしたとき帰りしなに彼が「すいません、それじゃあ」と言ったのを受けて考えてしまった。
言った言葉の文字通りの意味のとおりのことを意味していないから「あいまいな日本語、あいまいな国の日本」などという揶揄が生まれてしまうのかもしれないが、「文字通りの意味」以外の言外の意味とか遠回しにやわらかくとかニュアンスを相手に考えさせるとかいったことを要求する日本語は、生活の歴史から生まれた日本人の生活のセンスみたいなものを求める言語なのかなと思う。従ってはっきりものを言わないで遠回しに言い相手に「気を利かせ」たり想像力をはたらかせたりすることを求める文化なのかなと思う、ものの考え方とことばの使い方はどちが卵でどっちがニワトリということはわからないが、日本にいたら日本の論理に従うということだろう。
「トンネルを抜けると・・・・」の一文のニュアンスの豊かさは日本人にしかわからないと思う。
幼児期に英語の感覚をしみこませようとするのは、こういった日本語のセンスの刷り込み過程を妨害・攻撃するものであると言ってよい。
帰国子女をエリート扱いするいなかものコンプレックスは捨てよう。
日本に生活してしかすり込まれ得ない幼児体験を重視すべきである。

日本語は印欧語ではない。
違う論理でいきている言語である。
印欧語の論理で日本語に点数つけるのはおかしい。

ただし政治や外交のようにだましあいの世界では印欧語の論理で言葉を紡ぎ、かといって所詮ことばはことばでいつでも裏切られる可能性ありということを前提に相手に対処しなければならない世界だろう。言ったことの言質がけんかの材料・証拠になるのだから。
自国の文化に対するプライドを大切にしながら、政治のかけひきではいわゆる"論理的"をあやつれる能力が要求される。
ただし論理的だけでは"ひとの道"を実現できるものでないことはわかっているだろう。

太田裕美がコマーシャルをやっていた、えへへへ。
このスポンサーはセンスが良い。
電通でなくスポンサー自身のオーダーでなければ56才のおばさんを選択はしないだろう。

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