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2011年8月5日金曜日

ほんとに変な天気だ。

蒸し暑い。
結局我が家は今夏いちどもクーラーを使っていないことになる。
壊れてしまうんじゃないかな。

中耕2.5時間。
このくらいが限度かなと思う。
しっかり繊維のメヒシバ等を手でむしりながらの中耕。
道路際の草むしりも途中までやる。

いつもだとこの時期はお店の帰りに盆踊りの音がしたりしてにぎやかなんだけれど今年は中止のところが多いみたいね。

同じ豆を使っても加工するひとが違うとできあがったものはだいぶちがった味になることが多い。
これは同じ人が同じ材料を加工しても日によって異なることにもつながる。
さらには機械の大量生産でも同じラインでありながら日によって微妙に違ったりする。
何が原因だろうかと聞かれても「相手が生き物だから」と「自分も生き物だから」とぐらいにしか言葉を濁すことしかできないのだろうか。
実はここがこの商売のおもしろいところだ。
毎日同じだったらやってられない。
いつ行っても同じ味のあの商品、などというあり方にはクエスチョンマークである。
世間で言う"均質"とは違う次元での均質を提供すればいい。

ジャーナリズムは記者の目の前で起きている事柄を五感をとぎすませてそれらを脳みそを通過させてことばを紡ぐ。
インプットとアウトプットはイコールであることを望む・・・・。これはおかしい。
複数の絵描きが同じ対象を同じ位置からデッサンしても出てくるものはみな違っている。
脳みそをつまりこころを通過するとできあがったものには描くひとの解釈が入っている。
解釈が入らないのが客観的かというとそうではない。
そもそも解釈なしで言葉に再生することなど不可能である。
その先はその職業にあるひとたちの文筆というなりわいそのものにある。
対象の写しのように見えて実は写しではなく創作となっている。
報道は事物そのものの忠実な再生とは成り得ない。
ここを覚めた目で再チェック、再々チェックしなければならない。
意図的な削除も当然あるだろう。
自分はなんのためにこの職業に在るのか、ということを真剣に考えてもらいたい。
その現場にいないひとたちにことばでどうやって"真実"をえるかは、報道を職とする者のそれまでの経験・教養の上に築かれたセンサーいかんによる。
目に見えることをそのまま言葉に変換しただけで真実は伝わらない。
かといって饒舌が真実に近づくどころか真実をゆがめてしまうことは想像に難くない。
なるべきでないひとがジャーナリストをやっいる現代の報道業界をもっと批判し彼らが自分のセンサーをきちんと磨いていく必要性をさとらせなけれならない。
現代の受験体制がなるべきでない人をさまざまな"不適切な職業"につかせていることは悲劇でありかつ喜劇でもある。
ただし国をほろぼす喜劇である。

きのうの新聞のことを書こうと思っていたのは1.アインシュタインの伝記の翻訳騒動と2.白川英樹先生の「科学と社会」という科学者のあり方・正義についてのコラムのことであるが、ちょいとというかだいぶ疲れてしまったのでそのうちということにしよう。
白川先生は湯川秀樹以来の立派な科学者である。
アインシュタインの翻訳ごたごたは、聞くもうんざりの腐った理科系のゴシップといえるだろう。
カネカネカネ、が隅々まで行き渡った世の中である。

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