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2011年4月5日火曜日

脱穀3時間。

きょうのは乾燥しすぎたのだろうか割れ豆が若干混じっていた。昨年もっとも面積の多かった品種だがひと株に付いてるさやの数は少なく30-40程度だろうか。大粒、茶目。
虫食い等はそんなに多くはないので栽培はしやすいほうだと思うが量はそんなに多くはない。
脱穀機は株の乾燥場所にもってきての作業。
脱穀殻の吐き出し口には満開のぼけやユスラウメがあり、ごめんなさい状態。

武澤先生の「伊勢神宮の謎を探る」も真ん中あたりまでにたどつき勢いが付いてきた。
脱穀しながら"ことば"についてあれこれ考えを巡らす。
すなわち神の名前の変遷やある事柄・物の呼び方の変遷(誤用や勘違い等も含めて)などを通して、ことばがふくらみをもってくる過程の分析を通し当時のひとびとのこころの問題を推論し、かつ古事記や日本書紀の文字との比較から神社のありようの変遷などを推理しているところがとてつもなくおもしろいのである。
哲学は行き着くところ「言語学」である、だれかが言っていましたが言葉がさまざまにふくらみをもってくる過程とはほんとにおもしろい。辞書の楽しみとはそういうところにあると思うのだが、言葉をつむぎ出すひとたち、特に詩人たちはこういうことばの背後・周囲への広がりを楽しみながら文章を組み立てているのかなと、感心してしまう。
自分は子供のころから国語が大嫌いで、こないだも入試のシーズンに共通試験や高校の試験問題の解説が新聞に載ったりして「傍線部分の作者の思いは・・・」なんて問題をみるといまだに腹がたってしまうのであるが、こういった「感想の強要」みたいなものをテストすることになんの意味があるんだろうと思ってしまうのである。
この年齢になるとさまざまに想像力を働かせて、時にはたからみたらとんちんかんとも思える見方をしているのかもしれないがそれがなんとも楽しく感じられるようになってきた。
詩は知性や感覚のエッセンスの発現で、若い頃にはまったくちんぷんかんぷんであったものも今ならば楽しめるのかナー、なんて楽観的になってしまう。
それにしてもことばをつむぐ人たちの感覚の豊かさには恐れ入るばかりである。
自分にはもっとも縁遠い領域かもしれない。

豆腐にも少しはそういう箇所があるのだが・・・おおげさかな。
「この豆の一番いい状態、というものを作り出すのが名人」と部外者は思うかもしれないが、作る側からするとかならずしも答えはひとつではない、というよりも究極であろう状態はわかっていてもそればかりではおもしろくないので意図的にちょいとずらして作っている、ということが自分の場合の真実である。"答え"にふくらみをもたせる、というかおいしさのおもしろさの多様性を食べるひとに楽しんでもらうというのが自分のやり方で、決してひとつの答えを押しつけるものではないということがわかっていただけたらうれしいのです。
こういうところが不真面目ととられるかもしれませんが、真剣に遊んでいるのです。

この4月から小学校で英語が必修になったそうです。
おろかとしかいいようがない。
英語の"できない"官僚や審議委員たちが決めたことだろう。
国語教育の変革・改良こそ必須だと思うのだが。

1 件のコメント:

  1. Look this adress

    http://www.nytimes.com/interactive/2011/03/12/world/asia/20110312_japan.html#1

    NAKAGAWA

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