痛いときとなんでも無いときが波のようにやってくる。
車を運転しているときとかいすに座っているときが苦痛である。
出入りの植木屋さん、JR退職後この職に。
70いくつで胃ガン発生。
胃をだいぶ切り取って退院後経過良好、3年経過。
ときどき遊びに来る。
3ヶ月入院で医療費200万。
高額医療で1割負担、つまり20万。
何かから10万おりて結局使った現金は10万。
生命保険なんて入る意味あるの?と笑っていた。
今自分は56才で、55過ぎたあたりから保険の更新(つまり条件が悪くなる・・・高くなる)がやたらとやってくるのだが・・・親は保険好き・・・こういう話を聞いていると言葉のトリックというものに否応無しに過剰敏感になる。
死亡以外の保証はいったいなんなのかと思ってしまう。
払い込む金額は安くても年間30万程度だと思うが3年で100万近くなってしまう。10年で300万。「安心料」だとは世間でよく言われることばだが、こんなに保険会社に気遣ったことばもない。
払うの払わないの争いも日常茶飯事。
生命保険て、資金運営なしでも利益がでちゃうんじゃないのと考えたくなってしまう。
景気のいいときはいい気になってあっちこっちの付き合いで入ったはいいものの、景気が悪くなれば当然こういう姿勢にもなってきてしまう。
ただの預貯金、利息がゼロとしても、のほうがいいような気がする。
ただし死亡保険だけは入っておくべきだが。
ただものを加工して売るという仕事に幸せを感じる。
7畝蒔く、疲れた。
木曾義仲の最後の段のびわ演奏・語りを聞く。女性の語りであった。
・・・語りと言うよりは「うたい」という感じですごみを感じさせるすばらしいものであった。これが発生当時からの伝統にのっとっているのかどうかはだれにもわからないことではあるが、聞いていてこころふるえる作用を及ぼしてくれるのでまあそんなことの真偽はどうでもよかった。
もっと聞いてみたい。
すみのほうに植えた陸稲が芽を出し始める。
堅殻のまま植えたピーナッツもいくつか発芽していた。
はちのムサシは死んだのさ、の作曲者が亡くなったとのこと。これは平賀源内(山口崇がやっていた?)や吉田松陰(だれがやっていたかはわかっているのだが名前が・・・(30分後)わかった、篠田三郎)が出てくるNHKが金曜日の8時からやっていた時代劇で高校生のころやっていたような気がする。大好きな番組で、毎回わくわくして見ていた。平岩弓枝だったかな?題は「天下御免」だろう。
あとでロッキード事件の女性秘書榎本なんとかさんのなんでも暴露でこのことばがはやったんじゃなかったかな。
DVDにはならないだろうね。
また見てみたい。
Houghのブログでピアニストにかかわる聴き手としては珍しい問題が話題になっていた。
記憶力。
そう50も過ぎると「覚えられなくなってくる」のである。
アルヘリッチが20年くらい前からソロ活動はしなくなったとか、グールドがライブをやらなくなった理由が「覚えられなくなった」ということが演奏者たちからコメントされると、「なーんだ」というのが単なる聴き手の我々ファンは「くすっ」としてしまう。
協奏曲や室内合奏だと「合わせ」の問題もあり、楽譜を見るのは当たり前になっているので口実が作れると言うことだ。
ただ記憶によっての演奏(暗譜)がいいのか楽譜をきちんと見て(というより"置いて")演奏するのがいいのかは意見の分かれるところで、絶対音感ならぬ"絶対ピッチ"まで議論されていて、聴いているだけの人間には通常知ることのできないやりとりが展開されていて非常におもしろかった。こういう所はインターネットに感謝しなければならない。
特にグレン・グールドは極度のHyper-Tensin性の演奏家で、最終的には心筋梗塞で無くなったのだが、通常それを押さえる薬を飲み、さらに飲む必要のない精神安定剤のようなものを多用しており、結果脳の活動に影響し目や手の動きをコントロールする能力に悪影響を与えていたということだ。その結果、コンサート拒否。
決してテイクを何回も取り、いいとこをつなぎあわせる「つぎはぎスプライシング」行為をしていたわけではないと思う。グールドレベルがそんなことするわけがない。
グールドはバッハと現代曲は評価、天才だと思うがモーツァルトやベートーベンははっきりいって「うんざり」だ。グールドもすごいがなんといってもバッハがすごいのである。
記憶力といえば、豆腐造りにも記憶力はおおいに必要になる。
A品種には加水、砕き方、煮方、寄せ方がこうこうで、B品種にはそれそれ、・・・といった具合のデータの覚え込みではまったくないのだが(もちろんそれだけのひともいるが、そのひとはそれだけで終わってしまう)、「これこれこういう賞状になったらこちらはこういうふうに反応・手加減する」といった具合の瞬間判断のもとになるデータが頭の中に記憶されていなければならない。
音やテンポ・強弱を記憶するよりははるかにやさしいのであるが、実は見方を変えるとそれよりもはるかにむつかしいのである。
このへんが感じ取れるかいなかがあるひとが豆腐つくりとして適切か否かの判定を下される基準になる。ただたくさん売ると言うことならばこのへんは理解不要といえる。
もひとつおまけだが、最適といわれる処置・対応によってできる豆腐がかならずしもいちばんうまいのだ、ということは必ずしもいえない。
最適ポイントをちょっとずらしたところにおもしろいところがあるのである。
ただしこのことがわかるためには「最適ポイント」がどこなのかをきちんと見極めていないといけない。
つまり「遊心(ゆうしん)」の発動ということである。
この言葉は群馬の高校で美術の教師をしながら創作活動をしていた、武澤先生のお父様の同名の表題の絵からイメージした考えで、10年前に豆腐屋の集まりのグループ名に使わせていただいたものである。
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