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2011年5月22日日曜日

今年初めて

クーラーを使ってるお店に入る。
この感じでお昼前後にみんながクーラー漬けになると大変なことになるんだろうな。

2時頃どしゃ降りの雨。

物置の8ミリビデオの中に「チベット 死者の書」があった。
外はどしゃ降りなのでさっそく観る。
アメリカのホスピスの話から始まる。
元気なときからの「備え」という意味合いで14世ダライ・ラマが語っている。
死についての考察はとりもなおさず生を深く考えることである。
このことは今まで書いてきたことでもあるが自分の場合50も過ぎてこの年齢にもなるとさまざまなひとの死を実際にみてきているので否応なしにこのことを考えざるをえない、特に死に至る過程をずっとそばで付き添った経験を経た場合はそうであると思う。
そして自分自身の死についても自殺も含めてさまざまな考えをめぐらしてきた。この世のほとんどのひとも同じようではないのかな?。
チベット仏教はブーム・ファッションのような感じで受け取られているところもあり、書物の斜め読みからの抜き書き発言みたいなことばをそのまま真実と受け取るのはよくない。人生のハウツーものみたいな本も大量生産されているが読まないほうがいい。ハウツーはダメである。
時代のおおきな潮流を初めとして売れっ子の学者(たとえばサンデル教授みたいな)の発言、新聞の論説・・・といったものもまずは疑ってかかる必要がある。
大きな流れに巻き込まれてしまうのがひとの常。
死の問題はだれにも訪れることであり早いか遅いかという物理的な差異はどうしようもないことであるが、その受け止め方は日常的に備えているかつまり死を「生きる」ということとセットで深く考察しているかという個々人の"つとめ"の積み重ねである。
ダライ・ラマのいう「備え」とはその日々の生活の中にある"修行"のことを言っている。
なにも"道場"での修行のことを言っているのではない。
導くものがいるかもしれないし自分で苦しんで獲得できるかもしれない。
なにげない日々の暮らしの中におおきなあるいはちいさな導きを見いだせるかいなかはそのひとの考える習慣如何だだと思う。

自分はとてもじゃないけど宗教者とはいえない「神様ほとけ様」教みたいなもんだけれど、見えざるちからみたいなものに対するおそれや感謝は少しはあると思う。
天罰、因縁、運がいい・悪い、努力だけではどうにもならないんだけど努力せよ・・・・、年をとったのかなあ?

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