ちょっと手前で水田を眺める。
心が洗われるような気分であった。
所沢には、お遊びの田んぼは別にして、水田はない。
だから収穫直前のあのきん色の稲穂が風になびく美しさは日常的に目にできるものではない。
かつては家の前は水田であった。
本流から田んぼへ水を引く小川は子供たちのかっこうの遊び場であった。
ただし郷愁で水田の美しさにこころ惹かれるといわけではなく、それはあくまで目に映った美しさに対する純粋な気持ちである。
特にきん色の美しさは何にもたとえようがない。
きょうのはあおあおとした育ち盛りの若さの青、である。
古来稲は稲霊(いなだま)といわれたくらい、霊的なものを蔵した存在でわたしたちの体をつくる・・・すなわちいのちの源ととして尊ばれたものである。また稲妻とは稲の妻ということでお米とは天と地の交わりの上にできあがったいのち・産物ととらえられていたとのことである。
きょう水田を見てさらに加えて、その美しさがもたらすこころの高揚もその霊性を高めるおおきな要因であったのではないかと感じた。
日々水田を眺めながら暮らしているひとたちと比べてたまに・突然水田に出くわす自分と比べて感覚のずれがあることもなんとなく感じるのだが古代のひとたちがどういう思いで水田を眺めいかづちに対してどういう思いをもっていたか想像することは楽しい。
雷は稲の成長期にたくさん発生するものなのでその"意味"を自然人として解釈すると、当然上に述べたようなことを考えたくなるのも自然なことなのだと思う。
さらさら畑、きょうは10畦。
夕立はなかったがやや疲れていたので早じまい。
朝から夕方までりんごひとつしか食べていなかった。
しかも昨晩は眠れなかった。
熱帯夜ではなかった、コーヒーも飲んでいない。
疲れすぎだつたのだろうか。
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