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2011年7月22日金曜日

台風一過

だが朝はどんよりとした雲が多かった。
きょうもすずしい。
昼過ぎまで忙しくお昼抜きで畑に。
きょうは家の裏の一枚をかきまぜ播種準備。
それと一枚目、二枚目の中耕をやる。
二枚目に鳩ぽっぽ害甚大でまき直し必要を認識する。

早めにお店に。
おとといとその前が雨でひどかったのできのう・きょうは忙しかった。

知り合いから沖縄「なんくるなんくろ」前里秀美、というCDが届く。あとで聞こう。
帰りがけに本屋で金屋武洋「日本語は滅びない」を買う。
Nさんの紹介による著者である。
読む前に、といってももう20ページ読んでしまったが、この表題について自分なりに考えたことを簡単に書いてみたいのだが。
日本語は亡びない、というからには「亡びる」というひとがいるからこういうテーマを出したものと思われるが、世界にはものすごい数の言語があり(過去あって)静かに確実に滅んでいく言語があるということは周知の事実である。
ただしそれは人口が少ないとかあるいはそれゆえに大きな圧力のもとに上位の権力によって"上位の"言語にとってかわられて・・・という具合に亡びていくものと思われるが、ここでいう亡びるとはもちろんそういうことではなく「乱れ、腐り、汚染され、構造そのものが変形して・・・」ということを意味しているものと思う。
最近では「ら抜き」というのが顕著な例だが、丁寧語とか謙譲語の誤用、大江健三郎のようなとても日本語とはいえない翻訳調(こういうのを個性という言い方もできる)、外来語のカタカナ語化の多用・・・といったようにたくさんの困った現象があるわけだがこのままいくと日本語は・・・と心配しているのだろう。

ただ古来日本語にとっておおきな危機がいくつかあったこと、つまり漢字が入ってきたとき、明治維新の時の圧倒する西洋文明の流入に際しての翻訳の問題等を考えると、根幹にある原日本語という背骨は変形されたりこわされたりしたことはなかったと思う。
漢字流入以前にほんとにわが国に文字(のようなもの)がなかったということはいいきれず、ひょっとしたら侵略者たちの都合で闇にほうむりさらられたということも考えられる。もちろんあったとしてもそれを使えるのは当時のごく一部のエリートたちであったと思うが。
漢字に侵略されたというより漢字を利用して原日本語の幅を広げていったと考えたほうがいいと思う。・・・やがてひらかな、カタカナの発明。
明治の洋学流入以前に信長・秀吉のころのオランダ・ポルトガルによる文物流入があったが、明治期と比べるとその影響力は圧倒的にちいさく日本語の歴史という枠の中ではほとんど無視できるのかなと思う。
明治期は日本や中国にはない概念等の翻訳後の発明等、漢字の力を借りて先人たちは大きな苦労をしたと思うがだからといって漢字流入基のように文の構造の差異から生まれた読み下し分みたいな苦労はなかったと思う。
主語、述語、語順等全くの異物のようにみえて中国語と似ている文の構造など、学ぶものたちをにやりとさせてわくわくさせたこともたくさんあったと思う。
根幹は変わらない。
文の背骨はくずれない。
生き物である"ことば"が変わっていくのは当たり前である。
大江さんがよく引用するフラナリー・オコナーの"ハビット"という語もそもそもは言語に関する言葉、それももともとの意味は"衣を羽織る"という意味で、ことばというものは年輪の積み重ねみたいに":原意"の上にいろいろな意味合いを重ね着していくものだということだ。
ことばとは十二単だ。
ただしそれはひとつひとつの単語の話。
ことばの組み合わせの文章の構造みたいなものはそう簡単に変わっていくものではない。
このことを考えると大江さんの文章は悪文の極みかもしれない。

昨今の小学校から英語をなどという愚かな政策が現実化してしまったことを考えると、憂えるところは多々あるのだが教育とはいつも試行錯誤で右へ行ったり左へいったりの繰り返しのようで、いずれはこの英語教育は否定されるものであろう。
学問とか教育についてのきちんとした考え・議論のないこの国でどのようにそれをただしていったらいいのかな、どうしようもないことなのかなと憂えるばかりである。
総理大臣や次官やそれ以下の付随人等の文部省指導要領なるものを作文するひとたちが"教育"とか"学ぶ""いきる"・・について真剣に考えてきた人たちとはとても思えないが、そういうひとたちを育てたのももとはといえば教育者である、いやいや試験制度といったらいいのかな?。
文部省指導要領の字面だけを指導原理にして自分自身の頭で教育というものについて、それはとりもなおさず人生ということについて真剣に考えてこなかったながーい教育者たちの歴史の産物が現行教育である。

さて沖縄ポップス、歌謡・・・だ。
おー、あしたは第四土曜日だ。

さてさてもう遅いのだがCDの感想。
いい声である。
甘すぎたり丸すぎて飽きられるタイプではない。
声量はやや弱いので民謡歌手としては無理かなと思う。
6曲入っていて前5曲は沖縄旋法(mode)の独特の音になっている。
陽旋法。
全部この歌手の作詞・作曲。
歌詞ノートをみないと意味がわからない。
ことばの発音も現地のなまりを生かしていてとてもいい。
こういうのがいい。
しばらく毎晩聞くことになると思う。

最後の6曲目は旋法自体が本土の今のものでふつうの歌謡曲であるがいい曲である。
ただしこのアルバムに6曲目を入れる必要があったかどうかであるが、本土調のものだけでまとめても競争には・・・どうかなと思う。
やはりこのアルバムにいれるしかないのかな。

あー、沖縄旋法はいいなあ。

2回目を聞きながら書いているが5曲目の「芭蕉布」というのがいいなあ。

さあ、聞きながら寝よう・・・・目が覚めちゃったようだけど。
5曲目がいい。
はやるんじゃないかなあ?

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