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2011年7月12日火曜日

植木屋さんに畑の車誘導路の

草むしりと「生えないカバー」をしてもらう。
胃ガンの手術が3年前とは思えないほどの元気で相棒といっしょに朝6時から夕方4時まで働いてもらう。
畑の周辺部の草むしり等がどうしてもおろそかになりがちなので助かる。
本日は18畦蒔く。風があったので苦しくは感じなかった。休憩も少ない。
お店に出てからもきのうおとといほどの熱は感じなかった。

Nさんのブログを新しいほうのをみた。
「法をひとつひとつ明確にしてゆけば、必ずしも弱者を守るものではないのがわかる。反対に、法は強者を保護するやうに作られてゐる、と断言しても過言ではない」と。
身の回りで言うと"淘汰される"職業、というものなど典型的な「法に見捨てられた」ものの一例である。淘汰されるにはそれなりの意味はあるのだろうけど、淘汰されるべきでないものも淘汰されていってしまう例も多い。大いなる力をもったエスタブリッシュメントの保護のために。
法とは制定した時点での政治や経済、社会生活、文化・・・もろもろの「できあがっている基準・標準価値観」をもとに作られたもので、当然将来的に修正されていく許容力まで考えて作文されているものだが、「できあがった価値観=エスタブリッシュメント」とは見方を変えれば強者そのもので歴史とはだいたいにおいてエスタブリッシュメントに逆らうひとたちによって変えられていくものである。
政治思想、正義感、芸術、さまざまなものつくり、・・・。
みんなが「まあいいだろう、まあこんなもんだよ」ということに我慢できない人たちがエスタブリッシュメントに逆らいこわし新しいものをつくつていくのである。そしてそれがやがてエスタブリッシュメントになる。そしてまたそれに逆らうものが出てきて・・・。
こういったことの繰り返し、らせん型かジグザグアップダウンか何型かわからないがとにかく一直線に歴史が上へなり下へ進むものではない。
弁証法ということばでひとくくりにしてしまうのもよくないかもしれない。
大きな流れになじまないという性向は人類の少数部分のひとたちに生まれもって備え付けられた遺伝子・装置なのかもしれない。
だから人生の幸せ・不幸せなどということばがいかに定義できないものであるかがわかる。
他人からはひとの幸せ・不幸せは評定できない。
沼波弄山(ぬなみろうざん)つまり萬古焼きの本物が鑑定団に。
初代がずばぬけて新しく、その後は保守的陳腐化していく過程が絵でよくわかった。
こんな伝統焼き物があるんだなと思った。
それにしてもすばらしく"新しい"300年前であった。
10作品くらいしか残っていないとのことだ。

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