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2011年7月14日木曜日

スーパーのレジに並んでいた

腰が90度曲がっていたおばあちゃんが自分の番の途中でその場をはなれ2階への階段を目指し電池はどこかいなと聞いて・・・ということになった。そのレジの列にいたひとたちはそこから離れた時点から「認知症・・・?」で心配になり、おばあちゃんのあとについて行き声をかけて「導いた」ということだ。レジのおねえさんを含め列のひとたちみんないい人たちだった。
・・・ラジオへの投稿のお話。
いい話だった。
自然にこういうことが出てくるのがうれしかった。

今日の朝熊谷の予想は37度だった。
お昼から最初の畑の中耕、これはほこりと暑さでまいった。
2時から4時半まで種まき。
今夏最重要の品種である。
去年発見のもので100グラムから4キロ弱穫れ、そのうち3キロ強蒔く。
1ooキロ越せばいいのだけれど。
きのう同様疲労が激しく2畦蒔いては休んでいた。
暑さはそんなに苦しくは感じなかったのだけれど。

お店でマンゴージュースなるものを飲む。100パーセントジュース。
気持ち悪かった。
どろつとしていて飲み干すのがつらかった。
トマトジュースのような飲み物を連想した、味はもちろん別だが。
トマトジュースは最初だいきらいな飲み物で最近やつと塩が入ったやつを飲めるようになったばかりである。
トマトは大好き。ジュースは・・・・。
これと同じ理屈だ。
マンゴーはうまい。
ジュースは・・・。
固形と液体でこうもちがうふうに感じる者だろうか。

「伊勢神宮の謎を解く」を読み返していて、津田左右吉の引用があり彼が「・・・古代のひとたちは、自然界を統一的に見るというまでに思想が進歩していなかった・・・・、とりもなおさず文化の程度がなほ低かった・・・・」といったことに批判的に述べられていたが、学問の時代背景を考えると他者感覚を働かせなければならないところだが、時代があとになるほど「こころや文化」といわれるものが進歩していくという考えが、今考えたらどんなにおかしいことかということが普通のひとにもわかるところだが画期をなした学者であつてもこういうことは頻繁に起こりうることだろう。
こころとか超越的なモノに対する意識は言葉や文字が未発達な数千年前のほうが却ってとぎすまされていたのかもしれない。
五感のさえは、時代の積み重ねによる知識の補助を除外した、古代のほうが(現代とはニュアンスがやや異なるかもしれないが)冴え渡っていたに違いない。
知識の積み重ね・補助はわたしたちの感覚を鈍化させていく原因なのかもしれない。

ボールに水を張り氷を浮かべて冷や奴をしようと思ったんだけどお宅の豆腐は浮かなかったよ・・・・。
こんなひとが気取り顔で能書きを述べている姿を想像してみてください。
このまちにはこんな程度がいるのです。

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