きのうもすぐ酔っぱらってしまい、こないだの台風の時の低温とまたあつくなったりで体調をくずしているようだ。
病院への桜並木の誘導路でカラスが路面をつついているというか何かえさをついばんでいたのだと思うがかわいかった。
カラスはへび同様みんなからきらわれている動物の代表格かもしれない。
毒をもっているわけではなく人間からみたら「いたずらのようなこと」をするというだけのことだが、カラスにしてみれば生きることに真剣なだけなのにね。
「からーす、なぜなくのカラスは山に・・・」という歌をつくったひとは感性の豊かなひとだなと思う。
からすを題材にこんな歌を現代ではつくれるひともいないだろう。
もっともえさにかかわる生息環境も昔と今では違うのかな?
はとぽっぽも憎たらしいんだけどしょうがないな。
信号待ちで空き地の草っぱらをのぞくと猫じゃらしの群落。
見事なくらいきれいに穂を出し風にゆれているさまはすずしげでここちよい。
猫じゃらしだけに占拠された空間である。
2枚目の補填蒔き。
もうここはこれで勘弁してくれ。
夕方、結構すずしい。
今年の夏は去年よりはすずしい、というのがだいぶ前の長期予報だが・・・。
昼間は35度あっても夜さえすずしくなってくれればいい。
それにしてものったり降りたりの激しい仕事の車ではクーラーはしないほうがいいなとつくずく感じる。自然の外気で風をうけてはしっているのがもっとも健康的だなと感じる。
数時間乗りっぱなしは話が別だけど。
「日本語は亡びない」を少し読み進める。
明治には英語の達人とよばれていたひとたちが何人もいるけれども彼らは現代のように学ぶ対象がごくごく限られており、よくもまあ英語圏のひとと渡り合えたなと感心する。
Natureに日本人として初めて投稿した南方熊楠を初め同級の漱石、新渡戸稲造、馬場辰猪、・・・等は学習の材料は書物それも「語学」ものではなく最初から固い著作等の多読であっと思う。
森有礼が日本語廃止などといったのは時代背景を考えても許されざる文部大臣の発言である。
その孫も同じで、「バビロンの川のほとりで」がバイブルのようにあがめられていたわたしたちの青春時代っていったいなんだったのだろう。
英会話ブームはいつから始まったものかしれないがおろかな傾向である。
英会話のために遊学なんてものもあり何考えてるんだろうなと思う。
たくさん読み・観、おおいに考え作文することしか語学の上達法はない。
外国語として読む考え自体をあらためたほうがいいのかもしれない。
「ほんを読む」というただそれだけのことである。
読むことは考えることである。
考えを深めてくれるのは書くことでありしゃべることである。
会話程度、などという腐った日本語がうとましい。
環境がまわりにないから突然はしゃべれないのである。
慣れ・場数で「頭の中に蓄えられている」ものは出てくる。
読み・書き・会話。
いろんな体験・疑似体験・思考がすべてだと思う。
小学生に英会話、窮極の愚かな教育政策である。
英語のできないというより、多くを読み・体験し・考えたことのないひとの発発想である。
いやいや、そもそも天下国家のことなど心配していない「天下国家社員」の発想である。
上にあげた英語の達人たちはそろって「日本語はほろびません」と励ましているはずだ。
町工場や日の当たらない手作り職人はいずれほろびてしまうのかもしれないが、言語が腐りゆがめられ亡びてしまうということはあり得ない。
音楽で言うとリズムや旋法すべてが「ヨーロッパの基準」で評定されてきた。
ここでやっとエキゾティズムを乗り越えて客観的にみようとするようになってはきたようだが・・・。
ことごとくがヨーロッパを基準にものごとを計ろうとしているところにあやまちがある。
そのためにはもっとヨーロッパを知り、批判精神を熟成させなければならない。
もちろんいいところはたくさんある。
0 件のコメント:
コメントを投稿