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2011年9月13日火曜日

お月見ブログ

を書いたあと、またベランダに行って横になっていると12時頃まで寝てしまった。
そのせいか風邪をひいてしまい左耳がいつものごとく聞こえが悪い。
鼻水も出る。

月の引力を浴びて今朝の自分はすこし変な感じであった。
こころが関わり合う相手が映像であるか、活字であるか、現物であるかによってこんなにも意識の活性化に差があるものかと感じられたお月見だった。
月と自分との間には空気しかない、空気の向こうは真空だ。
月と同じ空間の中にいる感じはきのうみたいにするしかない。
ずっと昔、奥多摩のある藪尾根をかきわけて縦走路にたどりつきそのまま水平路をたどり山小屋についたのが夜9時頃だったろうか、一月ごろの山行を思い出したがあのときも満月だったような気がする。薄雪の山の中の歩行は神秘的な感じで"お化けとか妖怪"とかの出番とは縁のない、こわいというよりは寒さの中にいながらふわふわしたものを感じた。
ひとの死とかいうものをまだそんなに見ていない年代でもあったので、この年齢だったらまた別の意味で人生などを重ね合わせてしまっているかもしれないが、あのときの感覚がなにかきのうのベランダにいたときのわずかなパーセントをしめていたかもしれない。

画像は目の前を通り過ぎがちである、もちろん見方でそうでなくもできるがほとんどの場合"思考"しない。
活字は頭の中で思考(理解・解釈・想像)をよびおこす。
現物対峙は・・・・。受け止め方次第かな。知性(感性まで含めて)が活性化していれば、豊穣の時間が過ごせる。力あれば、言葉にし絵にし音楽にし・・・ということだ。
知性を活性化するには・・・・日々考える習慣を持つことだな、これが大江さんのいう人生のハビットか?

 日曜日に畑を手伝ってくれた人形町の田中さんから人形焼きと甘酒がとどく。
催事やそこいらに常時売っている人形焼きしかしらなかったので「どうせ」と思いながら口に入れたとたんびっくりであった。
こんなにうまいものかという一言だけ。
すぐ家内に食べさせると「うん」。
薄皮に上品な甘みのこしあん。
やはり「本家」と言われるものは必ずあるはずだと信じていてよかった。
"工業製品"が出回って商品の名を傷つけているのである。
遠くても買いに行くよ。
銀治ちゃゅんの講談の帰りに寄ってみよう。
りっぱなお使いモノにできる。
うれしい贈り物であった、ありがとうございます。

農水省の「離農奨励金」。
なんだいこりゃ、と思いつつも私有財産という足かせがある以上こういう手しかないのか。
腐った政治・・・というより腐った現実か?
こういうことを予測してなのかどうかわからないが農業(農協)名士と言われる近在のXは何も耕作しないのに農地を集めてきた。
何も蒔かない、緑肥でお飾りの栽培はときどきする。
四六時中畑をかき混ぜては草が生えないようにしている。
今回の国の施策でひともうけできるだろう。
東京周辺農業は腐っている。
もちろんまじめな何代も続いた野菜農家、新規参入の有機農家もたくさんいる。
すべてが悪いわけではない。
こういう状況に追い込んだ国策にすべての責がある。
でも・・でも・・・わずかな隙間にがんばれた可能性もあったはずである。

離農奨励で目指すものは"大規模"である。
しかし、ほんとにいいものを作っているのはそんなに大規模のひとたちではない。
もっとも大豆のように大規模でも無農薬可能なものは他にもあるが。
野菜はいいものを作ろうとしたら大規模は不適切である。
それだけ手がかかる。
家族総出でいいものを作っている。
大規模ばかりを促進して参入してくるものはすぐ見当がつく・・・・農業を犠牲にしてのし上がってきた企業たちである。
いつも国策に、つまり工業政策に、振り回されてきた農業の転機がまたやってきそうである。
もちろん"悪い"という意味の転機だ。
そして守護者であるべき多くの消費者が安いモノばかり追いかけている。
どこまで螺旋降下していくのだろうか、この国の農業は。

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