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2011年9月23日金曜日

大澤さんのラジオに

近藤正臣が出ていた。
鍵盤の上をぴょいぴょいと飛び跳ねてピアノを弾いていたあの場面は国民的なB級常識となっているが、その彼の今現在の境涯をすなおに語ったおしゃべりはすてきであった。粋とはこういうことなのか、と感じた。
こういう年をとりたいな。
京都の(祇園かな?)料理屋の息子として生まれた京都っ子だが、江戸っ子の"粋"をふんだんに感じさせるそのおしゃべりは楽しかった。
こういう友達がいるといいなあ。
深く生きたひとは優しい。
ひとのころを読み取って優しく語りかけはげましてくれる。

あるブログで生涯本が何冊よめるかというこがテーマになっていた。
よくあるテーマである。
結論もなんとなく見えていて「冊数じゃないよ、何を学んだかだよ」という答えがはじめっから想定された質問だが自分が今まで何冊読んだかということを考えると情けないほどの数字になると思う。
文学少年ではなく中学生くらいまではホームズとかルパンとかちょっとしゃれてクリスティとか、あるいはウェルズのSFとか日本の軍記物の子供用とかといったものが多かったかなと思う。
高校へ行くと週に3冊程度の新書読みなんて時期もあったが、これは読書とはいえない単なる受験勉強の世界だろう。
岩波文庫も定価を星印ひとつ50円なんて表記をしていた時代だ。
推薦ものをひたすらだったかな、数は多かったと思う。
それ以降は・・・、まあ人並みかな。
現在は月に3-5冊くらいだろう。
ネット新聞の記事はかなり多く読んでいる。

読んだ量が読んだ人の豊かさの大きさに比例はしない。
本はどちらかという考えるヒント、あるいは考えるパートナーといえる。
もちろん知識の伝達という基本的な機能も無視はできない。
読書の価値は「どれだけ深く考えさせる道具となりえたか」というところにあると思う。
そしてそのひとをさらに成長させるのは「文章を書くこと」だと思う。
書くことは考えることである。
読書や思索、あるいはそういうことに関係のないそのひとの職業上感得せられた"もの"を明瞭化させることが"書くこと"であると思う。

さすれば異なった本をやたらとたくさん読む必要もなく、re-readつまり読み直しということが大変重要な意味を帯びてくる。
この年になると読書をとおしての思考ばかりでなく仕事を通しての思索の明瞭化・まとめあげの必要性を痛感する。
仕事は手段である。
人生や世の中について考える手段である。
ただし"手段である"という意識の上に仕事をしていてもそのことは感じられない。
仕事に没頭することからしかそれは得られないはずである。

さてグラッドストーンは生涯に2.2万冊読んだとされていてこういう読書の話になるとかならず引き合いにだされる人物だが5才から85才(亡くなったのは88才だったかな?)まの80年で割り算をすると一年に300冊弱。
議会で忙しい(議員生活50年)日も考えると、一日に一冊ということになる。
一冊の文字数も昔は少なかったと思うが、これは不可能なような気がする。
たぶん嘘、ほらではないかと思う。

向こうにはOEDを一年で全部読み通すとか旧約・新約聖書を毎年毎年読み返すとかいうたぐいのジャンルの趣味があるようだが、読むというより"見る"だけの趣味のような気がする。

本にしても仕事にしても大切なことは"考える"事だと思う。
金儲けにしても人間関係にしても技術にしても、煎じ詰めると「人間とは何か、人生とは、社会とは?」になっていくのではないだろうか。

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