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2011年9月30日金曜日

夢の中に

ジャイアント馬場と鹿島の宮本さんがでてきた。
宮本さんは同業で何回か会っているのでいいのだが、ジャイアント馬場はテレビでみていただけである。
私も入れて3人が飲み会をして人生についてしみじみと語り合っていたということだが中身についてはまったく記憶にない。
頭の中の記憶の回路というものはどうしてこういう組み合わせをつくるのかわからないが、こういう夢を見られるというのは楽しいことだ。なんか得したような気がする。
怪獣においかけられたり崖っぷちに追い込まれたりというような怖い夢は子供の時以来みたことがないよな気がする。
会いたくてしょうがない故人というものも、普段想い続けている割には、出演してくれない。
勝手にあたまのどこかが出演交渉しているようでこちとらはなるがままにまかせているだけだ。

畑はおやすみ。

夜、こないだ枝豆2種をあげた保母さんが来て「おいしかった「」のひとこと。
うれしかった。
2種類の差もわかってくれてよかった。
意図的に非だだちゃ豆を意識してもいだものであるがこちとらの意図がわかってくれていたようである。
現今の枝豆市場はおおむねだだちゃ豆を基準にして売れる・売れないの判断をしているようだが、買う方はこういう一種の"価値観の一元化"を洗脳されているようであわれなことと常々思っている。買う方も愚かといいたいところだが買う方に大豆の知識がそんなにあるものともあるいはそういう知識に接する機会自体ないと思うので、悪いのは売る方だと思う。
猫も杓子もあるひとつの方向に押し流されていく、というのは永遠に直すことのできない"大衆"というものが持つ特性なのだろう。
そういう悪癖・悪徳を導くのはメディアや"ちょいと勘違い"している自称文化人と称するひとたちや団体であろう。
"多様性"ということば自体がファッションと化してしまったている状況ではどうやって多様性の重要さを説くかということはむつかしい問題だが、実例を示し実践した結果を示すしかないような気がする。

2011年9月29日木曜日

携帯電話の

進化についてお昼にテレビでやっていたが、スマートフォンオンリーの方向へ需要が向かって行ってるのかと思ったららくらくフォンの販売量が安定した比率で守られているとのこと。
つまり電話とメールとカメラだけの機能、インターネットもiモードとかで簡単につなげるやつかな。
自分のは恥ずかしながらこれなのだが電話とメールだけで十分足りている。
外に居てまでパソコンはいらないし、調べ物は家ですればよい。
何を調べるか、自体を忘れがちなのでそれは紙に書いておけばよい。
これから買うことはと考えると・・・・・わからない、といったところかな。
本のダウンロード用の機械は買おうと思っているがソフト自体が充実しているわけではないのでまだ先でいい。

仲間に偶然会う。
まだよく飲みに行くの?と聞くと、孫がかわいいのと9時になると眠くなっちゃってねー、だと。
おおむねこのパターンが多いのかな。
平和だナー。
飲み会って「うさ晴らし」ばかりでなく「なにかを求めて」の部分も多いと思うのだが、意欲の減衰は致し方ないことなのだろうか?
死ぬまで何かを追いかけている姿が美しいと思うんだけど。
夢を果たしきってあるいはあきらめて、よりも夢を持ったまま未完成をかかえながら死んでいくのが美しいと思う。Mはまさにそうであった。
若いけどある意味で幸せな死であったと思う。

高級茶に放射能が高くでるのは要するに高級茶は一番茶のほんとにやわらかいうちの芽をつみとったもので、ちょうど3/11のあと3月後半から芽が出て4月半ばくらいでつんでしまうと思うが、まだ空から放射能がたくさん降っていた時期にあたるものだろう。
同時期のあとに芽が出た葉物や果実・豆類の数値が低いのもうなづける。つまり土から吸い上げたものの蓄積ということになるわけだが、きちんとしたデータはまだまだこれからなのかもしれない。
ひょっとすると関東全体が"アウト"ということもあり得るのかもしれない。

2011年9月28日水曜日

谷中ショウガ一部収穫。

やや固くなっている。もっと早くて良かったと思う。
極小を一部刈り取る。葉っぱはてっぺんが黄色く他は緑なのだがてっぺん近くのさやも茶色くなっていたり黄色くなってきたりしている。
早めに刈り取って日当たり風通しのいいところで乾しておけばよい。蒸れるので毎日動かしてやることを忘れてはならない。

貸している家庭菜園の方とおしゃべりした収穫のひとつ。
なんと我が河岸段丘の高台の端っこや一部のひっこんだところでもスカイツリーや新宿の高層ビルが見えるとのことであった。特に元旦の初日の出は新宿のビル街の真ん中に日が昇るとのことで、元旦の朝はあるスポットに数十人アマチュアカメラマンが集まるとのことであった。
へえー。
全く知らなかった。
写真だと相当な望遠でないと無理だと思うが・・・。
なんとなくどの辺がいいか頭にはイメージできている。

・むかない甘栗
・「30分で読む日本・世界の古典名作」
・名曲"さわり"集
・インスタント食品
・学校農業・・・「蒔く、収穫、そして食べる」
・・・・・

手抜きの社会、文化、教育・・・。
長編小説でいえば筋だけで細部をすべて切り捨てたような読み物みたいな文化。
山でいえば頂上を踏むことだけに価値を見いだす山登り。
蒔くのと刈り取りだけの農業体験。
能書きだけに一喜一憂のミーハー消費者。
ふるさとをすてた定年後人間の「いなか暮らしのすすめ」。
カネのギブアンドテイクだけのあきんどたち。
・・・・・。
数え上げたらきりがない。
わがままの極み、かんちがい。

2011年9月27日火曜日

春日部ナンバー

をここのところよく見るナー、と思っていたところ大澤さんのゲストに太田裕美。
声を聞いただけでうれしくなってしまったのだが、やはりかなりファンはいるのだなということがわかる。
投稿ファックスも一時間で締め切り。
やはりアイドルなのか、と思ったのだが意外と話題に上るのは初期の曲ばかりですべて網羅しているおいらはひとり優越感にひたっていた。
中期から引退までがいいのだ。
そして復活した時は、子供を生んだ女性の必然としてしかたないことのだが、音域が狭くしかも低くなってしまっている。ただしこれはこれで色っぽくもあり良きに解釈する。
やや鬱状態の昨今だが少し"晴れ"をもらった午前だった。
白州青豆とdeckon。それぞれ所沢4代目くらいだろうか。
山梨の前者はうまい枝豆であるがもう少し甘みがあってもいいと思う。
DECKONはジーンバンク登録豆であるが、顕著な変異種を伴う品種で今まで虫食い害がひどかったのだが今年は客土ならぬ追加土をたくさんしたせいかできはいいのではないかと思う。枝豆としてはまずくはないがそんなにうまいとも言えない。
品種そのものはきわめてレアーである。

ベオゥルフをとばし読む。そのあと映画を見る。
単純だが久しぶりのこともありおもしろかった。
映画では埋葬というか葬送がジークフリートの死と同様船に安置し燃やしてしまうというところが同じで、しかも愛する(といっても相手は悪魔だが)相手が合体して燃え尽きるというところが同じで民族の同質性から来るものかな。ゲルマンとデンマークなので似ているのかなと思った。
と、来るとトールキンとなるのだがきりがないのでやめる。

パートが新沼謙二と美川憲一(?)のコンサートに行くため早くお店に行く。たしか震災援助関連だったと思う。
美川憲一はとても観客を楽しませてくれるひとのようでここ所沢では大人気とのこと。
これに対して芸能界の大御所Xの以前のコンサートで「なにー、8000円?そんな安いノー・・・」といって観客をばかにする発言があったとのことでウチのパートはだいきらいとか。自分がえらいと思いはじめるとどんな業界でも同じ事が起こるんだね。
こちとらは感心がないのでどうでもいいことなのだが、こういう下品な成金発言には閉口したものだ。
今日は楽しめていたのならばいいんだけれど。
お店はひまだったな。
新人の訓練。

家に帰ると鑑定団。
茂吉の書が出ていた。
蔵王の頂上、一等三角点のそばの山形平野に向いた茂吉の碑を思い出しかつ、山スキー用のポールがあるのにもかかわらず1メートルくらいしか視界が無かった濃霧時の登山で遭難しかかったことを思い出す。お釜に落ちていたかもしれない。
また茂吉の処方した睡眠薬の大量摂取で芥川が自殺したということを初めて知る。その自殺した年の書で、ビールジョッキと歌の書でおかしくもあった。

2011年9月26日月曜日

極小は

ムラがあるとはいえもう刈ってもいいのかもしれないというようなのが出てきている。
3畝とわずかな量。

4種類の枝豆をもぐ。
秩父ゆがき豆は名前そのものが枝豆用を表しているが、まだまだ早すぎるようだがふくれたのを少しもぐ。甘みはあまりなくたんぱくな感じ、これでうまくなるのだろうか。

福島在来のRM在来(匿名希望)はいままでまずいと思っていたがほくほくとしていて甘み青味豊かな名品ということに気づく。これはうまい。今年で所沢5代目。もいだタイミング自体は早過ぎもせずおそ過ぎもせずのちょうどなのだろうか、ぱんぱんではない。
ジーンバンク未登録だったと思う。
数県にわたって分布していたと思うが。

お月見在来、長野県。まだやや早いのだが湯がき豆よりはふくらんでいる。
甘い。青味は湯が生豆よりある。たしかこれは青豆だったと思うが・・・。
ゆでたてでもうまい。
9月のお月見には無理としても10月のお月見用に考えればよい。

もうひとつは"夢かなう"在来(匿名希望)でだいぶ身が入ってきている。
家の裏の畑でやるとことごとく虫がはいる種類で収量はとてもひくい。
今回のさらさら土畑ではけっこうさやが付いておりこのまんまで熟してほしいのだが。
これも福島だったか宮城の在来だったと思う、所沢5代目。
甘み・青味たっぷりである。
名前からしておめでたい席に使える。

2011年9月25日日曜日

夏バテ。

陽気が良くなってくると緊張が解けて一気に疲れを意識しだす。
ここのところだるい。
台風でみな倒されてしまった精神的ショックもおおきな原因かもしれない。
枝豆はどれもうまい。
無農薬・無肥料は甘みが減り青味が強くなるというのが一般論だが枝豆の段階ではそんなに劣性は感じない。できればピークちょっと手前がいい。農家にとってこれは"重量減"となるので絶対にできない、つまり市場に出回るものはみんなぱんぱんのピークのものである。・・・もちろん前にも書いたがすべて"手前"がうまい、というわけではないが。

雑草も一緒に傾いてしまっていて判別できないが、すぐに上にまっすぐに伸びてくるのは雑草である。もうちょいとすると出てくる。
極小品種が枯れる直前である。
青い部分を多く持っていてもぱんぱんにさやがふくれていれば刈ってしまったほうがいい。
日当たりのいいところで蒸れないように乾燥すればいい。
刈り取り全体のスケジュールから考えて早め早めのほうがいい。いつも慎重すぎて遅くなってから苦労する。ただし乾す場所と蒸れ防止が難儀である。

きょうみたインスペクター・モースは良かった。
結婚を約束しながら果たせず30年(?)して相手の女性の亭主がピストル自殺にみせかけた殺人事件を担当するというものだが、推理重点に傾かずこころの葛藤等が豊かにか描かれ、またモースの部下のこころやさしい気配りがなんか"お茶"の世界をほうふつとさせるものがありすっかり虜にされてしまった4時間であった・・・、言葉が早すぎてスピードを1/2にして音無しの字幕読みも交えてなので100分が240分になってしまった。字幕になっても理解しがたい熟語が連発で出てきて自分の不勉強を恥じたしだいである。
これがシーズン6の頭でたしかシーズン8で終わりなので、終わって欲しくない症候群が押し寄せてくるものと思われ、また中断してほかのものに移ろうかなとも考えている。
いずれにしてもどれもこれも"推理"だけに偏っていないアメリカなんぞでは考えられない出来の映画・・・というよりテレビで放映されたものだが・・・である。

2011年9月23日金曜日

大澤さんのラジオに

近藤正臣が出ていた。
鍵盤の上をぴょいぴょいと飛び跳ねてピアノを弾いていたあの場面は国民的なB級常識となっているが、その彼の今現在の境涯をすなおに語ったおしゃべりはすてきであった。粋とはこういうことなのか、と感じた。
こういう年をとりたいな。
京都の(祇園かな?)料理屋の息子として生まれた京都っ子だが、江戸っ子の"粋"をふんだんに感じさせるそのおしゃべりは楽しかった。
こういう友達がいるといいなあ。
深く生きたひとは優しい。
ひとのころを読み取って優しく語りかけはげましてくれる。

あるブログで生涯本が何冊よめるかというこがテーマになっていた。
よくあるテーマである。
結論もなんとなく見えていて「冊数じゃないよ、何を学んだかだよ」という答えがはじめっから想定された質問だが自分が今まで何冊読んだかということを考えると情けないほどの数字になると思う。
文学少年ではなく中学生くらいまではホームズとかルパンとかちょっとしゃれてクリスティとか、あるいはウェルズのSFとか日本の軍記物の子供用とかといったものが多かったかなと思う。
高校へ行くと週に3冊程度の新書読みなんて時期もあったが、これは読書とはいえない単なる受験勉強の世界だろう。
岩波文庫も定価を星印ひとつ50円なんて表記をしていた時代だ。
推薦ものをひたすらだったかな、数は多かったと思う。
それ以降は・・・、まあ人並みかな。
現在は月に3-5冊くらいだろう。
ネット新聞の記事はかなり多く読んでいる。

読んだ量が読んだ人の豊かさの大きさに比例はしない。
本はどちらかという考えるヒント、あるいは考えるパートナーといえる。
もちろん知識の伝達という基本的な機能も無視はできない。
読書の価値は「どれだけ深く考えさせる道具となりえたか」というところにあると思う。
そしてそのひとをさらに成長させるのは「文章を書くこと」だと思う。
書くことは考えることである。
読書や思索、あるいはそういうことに関係のないそのひとの職業上感得せられた"もの"を明瞭化させることが"書くこと"であると思う。

さすれば異なった本をやたらとたくさん読む必要もなく、re-readつまり読み直しということが大変重要な意味を帯びてくる。
この年になると読書をとおしての思考ばかりでなく仕事を通しての思索の明瞭化・まとめあげの必要性を痛感する。
仕事は手段である。
人生や世の中について考える手段である。
ただし"手段である"という意識の上に仕事をしていてもそのことは感じられない。
仕事に没頭することからしかそれは得られないはずである。

さてグラッドストーンは生涯に2.2万冊読んだとされていてこういう読書の話になるとかならず引き合いにだされる人物だが5才から85才(亡くなったのは88才だったかな?)まの80年で割り算をすると一年に300冊弱。
議会で忙しい(議員生活50年)日も考えると、一日に一冊ということになる。
一冊の文字数も昔は少なかったと思うが、これは不可能なような気がする。
たぶん嘘、ほらではないかと思う。

向こうにはOEDを一年で全部読み通すとか旧約・新約聖書を毎年毎年読み返すとかいうたぐいのジャンルの趣味があるようだが、読むというより"見る"だけの趣味のような気がする。

本にしても仕事にしても大切なことは"考える"事だと思う。
金儲けにしても人間関係にしても技術にしても、煎じ詰めると「人間とは何か、人生とは、社会とは?」になっていくのではないだろうか。

2011年9月22日木曜日

きのうの台風はひさびさの風台風で

朝町を走ると木の小枝・大枝や壊れた傘、配電盤のフタ、板っきれ、鉢植えの花や植木が道路にたくさん落ちていた。
昔なら電線が切れたりとか頻繁に起こっていたようだけど・・・。
八王子では風速45メートル出たとか。
埼玉県版には自動車の上に自動車が逆さになって乗っていた写真もあった。
でもこの辺はこんな程度の被害で大きな被害のあった方たちには申し訳ないような気もしてしまう。
親戚に墓参りに行くと庭の杉の木がねじれてひびが入った状態で木全体が傾いていた。

畑の見回り。
おもわず・・・笑ってしまった。
すべての畑で9割以上倒れている。
背が低くなって葉っぱはそのままなので何でもないようなんだけれど実はみんな傾いているあるいは完全に倒れている。
もっとも土に潜ったさやは別としてのまんま熟して収穫に至るだけなのだが例え手狩りとは言え、やりにくい。
台風が7月に来たりすると倒れる確率もかなり低く、倒れてもすぐに倒れた先から上に向かってまたまっすぐ伸びていく。
今回のような時期だと花は終わって実がびっしりついていてボディ自体は成長ストップに近いので傾いたまま実はぷっくらとしていく。
土に埋まったモノは雨が降り続いたりすると腐ってしまう。
ただし全体の収穫量に対する比率はたいしたことはないので安心である。
でもやはりまっすぐに立ったまま枯れていくのがきれいな風景なんだけれど・・・。
全国のイネや大豆の農家は大変なことになっているのだろうか。

東京大豆の枝豆をもぐ。
子供がゆでてくれたが、感心しない味であった。煮方は正しい。
・・・・・が、だ。
仕事から帰って冷えたの、というか常温のものを食べると・・・うまかった。
ゆでたてまずく冷えてからおいしい。
こういうものもあるらしい。
もぐタイミング、ゆでかた、食べる温度・・・品種によって適切な食べ方があるようだ。
今までずーっとゆでたてばかりがうまいと思っていた、先入観・固定観念である。
日本語化したステレオタイプということか。マインドセットでもいいか。

お客様からコスモスの注文を受ける。
あした刈っていく。
きょう墓参りに行ったおばさんは胃ガン闘病一年であったが、コスモスの咲く頃逝きたい」といつも言っていてその通りになった花である。
庭ではだめな花みたいで畑のように風通しのいいところが適しているらしい。
いつも雑草のように出てくるので多くを刈り倒しているのだけれど。
花の水彩画をやっているお客様だ。
絵や音楽の好きなおだやかなお客様だ。

2011年9月21日水曜日

連日ゴロゴロもできないので

床屋に行く。
帰ってくると冷蔵庫の上のトタン屋根が道路側に飛んでいったところだ、ひとや車にぶつからなくて良かった。
家に入るとパソコンのそばが雨漏り。
外はひどい。
浜松の映像が出たが暴風雨。
やがてあれがこちらにやってくる。
きょうの台風でおおむね大豆は倒伏るだろう。
倒れてもまた上に向かっていくのでかまわないのだが倒れたことで陰になって小さくしていた雑草が一部勢いを増す可能性がある、これがやっかいだ。
倒れた畝間に入るのはやっかいなことだ。

きのうに続きあたたかいコーヒーを飲む、何ヶ月ぶりだろう。

午後ずーっと風と雨。
お店に出かけるときはピークだったろうか。
駐車場とお店の距離は2,300メートルだがびしょびしょになると思い息子におくってもらう。
駅前改札はひとでびっしり、電車は止まっているようだ。
かさはさせない。
10メートルの歩行で店内に、びしょぬれにならずにすんだ。
開店以来最低の売り上げであった、客数は65人であった。
帰る頃は雨もなく風も弱くなる。
息子が迎えに来てくれた。

畑は・・・・あした見に行くのがこわいな。

もう一杯あたたかいコーヒーといこうかな。

2011年9月20日火曜日

朝から雨。

気温は午前で20度いってなかったとのこと。
霧雨の中、お客様との約束なので枝豆もぎをする。
カメムシ御三家たっぷりいる。
ヨトウムシ葉もせまい範囲の豆もぎながらひと株数枚発見。

インスペクター・モースを久しぶりに見る。
BBCで2,30年前にやった一話平均100分の事件モノ、一話完結。
クラシックという名に属する赤いジャガーがかっこいい。
ジャガーって日本では2000万くらいからの車なのでそんなには見かけないが、モースのはまったく見たことがない。
車に興味のない私にもその美しさは感じられる。
警察電話付き。
カセットオーディオ付き。
背景にクラシックの宗教曲が流れてきていい感じである。
ロンドンのスラングは聞き取れないが字幕でおおざっぱに、というところだがラテン語の引用が出てきたりで難儀する。
ただすべて殺人事件なので美しいOxfordの景色や家並みを眺めながら音無しでも楽しめるのでは・・・。
向こうのジャンクフードなどが出てきて気になる、もちろんマクドナルドやケンタッキーなどではない。
コロンボのように一杯ひっかけてそのまま車ですぐ帰宅ということはないようだ。
助手席も含め一般道でシートベルトをしている、日本ではまだ義務化をしていなかったころだろう。
テロップで背景音楽の曲名を出したりするが間違っていることもあるのが気になるというか愛嬌だ。

台風がまたやってくる。
日本縦断。
紀伊半島、福島もコースの中。
今年はこの国は呪われた一年なのか?
紀伊半島の被災地の斜面崩壊の原因が植林の"杉"にあるのか、あるいはそもそもその場所の岩盤から上の土砂部分の自然的な弱さからきているものなのか専門家の説明がないとなんとも言えないが、森林放置・崩壊で荒れた山々は日本中いたるところにある。
人災だとしたら地震に寄らないとしてもこれから先気候変動による大雨などで今回の紀伊半島のようなことは連鎖的に起こるはずだ。
市場原理だけで森林を考えてきたツケが回ってきているのだと思う。
山は木の切り出しという"生産活動"だけの観点から価値があるわけではなく森が存在しているだけで平地の繁栄を支えてくれているのである。
都市へ集中した富はそういったところのために還元してあげなければならないと思う。
森ばかりでなく過疎の地方に対しても都市は恩がある。
人材を供給し国土を守ってくれている。
大都市こそ旧約聖書のなんとかという都市そのものだ。

大澤さんのラジオで山田耕筰の作品をやっていた。
ゲストの解説者が選んだ歌手がひどいのばかりだった。
日本のソプラノ界草分けの・・さんといわれても歌詞の判別しにくいビブラートだらけの歌い方にはうんざりした。こういったひとはオペラやヨーロッパのリートをやっていればよい。
日本語の名曲はやはり童謡歌手とかダークダックスとか・・・合唱団とか川口京子さんのうたしかない。音楽そのものはヨーロッパの旋法なので大きな声でベルカント商法を非難するのはどしろうとのヤジにしか過ぎないのかもしれないが・・・。
もとアイドル歌手が歌った童謡にとてもいいものがある。
ことばは生きていて変化していくものではあるけれど"古典の事実"はきちんとつないでいかなければならない。

2011年9月19日月曜日

今週は平日が3日しかないのね。

給料日も週末とのかねあいで22日だろう。

きょうはパソコンに風がふいてこない、蒸し暑い。
畑は休んでごろごろとしていると4時頃から風そのものが冷たくなってきた。
窓ょしめる。

飯島直子が日本酒を飲んでいる姿がきれいだった。
日本酒の似合う女性・・・かっこいいなあ、自分のまわりにいるいる。
自分は焼酎と沖縄の古酒とビールしか飲まなくなってしまった。

疲労しているようだ。
きょうはここまでにしよう。
まだ9時だけど寝ます。
ちなみにきのうから今朝にかけては夢を5,6個みたような気がする。
内容はなにも覚えていない。
熱帯夜だったせいだろう。

2011年9月18日日曜日

いい天気できれいな秋の雲が。

日陰は涼しく湿気のない"いい天気"。
ただ気温はそうとうありそう。
都心で33度ということはこのへんはやっぱり34,5度にいくのだろう。

大豆のは蒔いた順に花が咲き実が付き、できあがるというものではなく"品種差"によって育成・収穫が決まる。
一番最初に蒔いたものはなさけないくらいにさやはちいさい。

さやなみの枝豆。
ゆでているときからアセチルピロリン臭が部屋中に。
きのうと同じく"早め"の状態。
虫入りが多い。
味はきのうのほうがいい、つまりこちらは豆あじがやや貧困な感じなのだが本来は豆腐を考えればわかるようにもっと味は豊かである。
ぱんぱんに近いほうがうまいのかもしれない。

見回り3反。
ヨトウムシ葉一枚もみつからず(みつけられず)。
大きくなった株たちのてっぺんの葉っぱが一部落ちている。
少し下の方にも光りを取り込もうとしているのかな。
柿の木のあるひとにはわかると思うが一本の木に何百も花が咲き結実したとしてもそれがすべて最後まであるわけてはなく自分自身で間引き作業をしているようだ。
大豆でも同じようなことが起こる。
発芽してから成長点がリードしてきたボディ形成はあるところでストップ。
栄養をさやの中の身にいくようにする。
さやはさやで全部ぷっくらとなっていくわけではなく黄色くなったりあるいは緑のまんまぺったんこのまんま落ちてしまうものがある。
同一の土なら品種によってかなり差が出る。その土地の土質・気候・生息害虫・育成法に対する相性からくるものだろう。
少し畝間が見えたりしてすっきりしてきた。
ただし横倒れのひどいところは話が別だが。

小粒の・・・がぱんぱんで葉っぱ総体がやや黄色っぽくなってきた。
9月末には枯れるかなと期待しているのだが。
おとなりの大粒もややぱんぱんに近くなってきた。

きょうは少し強い風が吹いていて気持ちよい。
車の陰で腰掛けてぼーっとしていていい気分。
これは最適の読書環境である。
畑に本を持って行くのもいいことだ。

お昼のさやなみに続いて2種類枝豆を取る。

きょうはもう9月18日。
自分にとって一年の変わり目をもっとも感じるのがこの時期のキンモクセイの香りである。
キンモクセイの香りがすると「またひとつ年をとったな」と感じるのである。
町中を走っていてどこからもにおってくるものだが、通常は9/15くらいにそうなっていたのがここ5年くらいはほとんどお彼岸過ぎ、去年は10月に入ってからであった。
夏の高温とその長期化が原因だろう。
ことしもまだまったくその気配はない。

夕飯でさっきの枝豆。
小粒はすごく甘いのと豆あじが豊かであることがわかる。
虫入りも少なく多収だろう、ただし選別は大変である。
豆腐にするのはもったいなく納豆だろう。
もひとつはさっぱ系で豆あじは弱いかな。
この時期でないと食べた充実感は得られないかもしれない。

宇宙ステーションから古川宇宙飛行士がカメラを操作したオーロラの生中継映像を映していた。
カメラ自体はすごいのだろうがデータ転送の能力の限界だろう、映像そのものはデジタルカメラ最初期程度の画像であった。
ただ古川さんと同じ時間・視線を共有できた喜びは多くのひとが感じたことだろう。
増税増税と言っているときに行政側のその対価としてたくさんの"カット"が要求されるわけだが、こういった純粋な世界のひとたちには経済的ストレスが相当たまっているのではないかと思う。
"役にたたない(としか理解されない)"学問は即座に"カット"の対象となってしまう。
目先の"役に立つ"というものほど未来の役に立たないモノはない。
古川さんがんばってね。

お昼にもテレビをみていたのだがブラジルのアマゾンの南に位置する広大な"ゼナード"という荒れていると言われている広大な草原。
角さんの時にアメリカの大豆輸出禁止(embargo)をを受け手この地の巨大開発援助を我が国が始めたわけだが、実はアマゾン同様おおきな環境破壊の罪をおかしている。
その影響はアマゾンの森林伐採と比べていかほどのものかはわからないが、日本の農業技術者が「なんにも育てられないところ」に「育ててみせる」という好奇心と・・・なんだろう、好奇心だけかな、この地には人が住んでないんだから・・・国策の「行け行けどんどん」の号令で広大な大豆畑を出現せしめたわけだが、巨大な動く灌漑マシーンなどをみていると「のうぎょうするに値しない、すべきでないところ」に強引に人間の力を見せつけようとしているおごりばかりが感じられた。
このような例は他にもたくさんあるだろう。
人間の愚行で疲弊したところを人間の力で・・・・、というのはわかる。
そもそも農業できないところや森林であるべきところを農地にという行いは千年万年後にどういう影響をもたらすのだろうか。もっとも人類がそんなに持つとも思えないが。
ある国の福祉はその下位にある弱い国々の犠牲の上になりたつ、というのは人類の宿命だろう。
下位国が豊かになればさらにその下にしわ寄せが行く。
企業の海外移転というのもこのことである。
中国のコストにはやがて耐えられなくなる。
そのときはそのときで、なるようになればいいよ、ということか。

2011年9月17日土曜日

初えだ豆、大野在来。

中国地方の在来種。
ことし6年目だろうか。
いつも少しずつしかまかないが今年は5畝(0.5反=165坪)蒔いたので豆腐が作れる量だ。
比較的虫食いにも強くたくさんとれる。
できあがりまで7-8割といったできの枝豆をもぐ。
うまかった。
アセチルピロリン臭なし。
適度に甘い。青味も良好。
カメムシによる吸水被害のがややあるが虫入りはごくわずかであった。
まだ"若い"からかな。
やはりやや未熟ぐらすいがいい。
ただしやや行き過ぎがいいというものもある・・・丹波の黒豆等ほくほくとした栗みたいな枝豆。
大野在来は普通のタイプだがいい枝豆だ。
ぱんぱんに張ったらどうなるだろうか。

来週の新そばの会に枝豆持って行けるかな?
虫入りなのでごく身内用ということで。

ヨトウムシ幼虫葉2枚つみとる。
火あぶりとする。
耕耘機オイル交換、真っ黒であった。
プラグはシーズンが終わるごとに交換かな。

福岡の和田さんとこの畑はどうなってるのかな。
こないだの台風が心配だ。

夕方歯医者さんの知り合いがお店に来て、四六時中かけずり回っている東大出の共通の友達を引き合いに出して、「なにもしていない時間が大切」ということを話した。
そうなんだよな。
読まない、聞かない、みない、考えない・・・・そして考える。
あとからあとからなにかにをおいかけ追いかけられていると結局何も得られないのかな、と。
自分には畑の時間があるけど、たまには"無音"で作業したほうがいいのだろう
野の風と野においと・・・そのまんまどっぷり浸かっているのがいいのかもしれない。

2011年9月16日金曜日

朝、暗雲立ちこめ

やったー、きょうはすずしくなるぞと思いきやすぐにまたもとに戻ってしまった。
きのうは相当暑かったようだが畑にいてそんな感じはしなかったんだけど。
パソコンの前は相変わらずいい風が入ってくる、自分の部屋ではなくお勝手と母屋との間の"広場"である。
パソコンの脇にはちいさい書棚もある。
家族には結構目障りかもしれないがこういうところにないと、眠くなってしまうのである。
部屋には超小型ノートパソコン、CD/DVDは外付けである。

見回り、2反。
じーっと見つめながら畝間を歩く。
4枚くらい収集。
時期のせいだろうかまだそんなにヨトウムシは発生していない。
ホソヘリカメムシが多い。
普通の亀の子型のもいくらかはいる。
ごく早生の一品種がぱんぱんになりかけている。
そのとなりの中生(なかて)は枝豆食べ頃に近づいている。
風がやや強く心地よい畑であった。

お店が終わると緊急短時間飲み会。
帰るころ雨が結構ふっていてびしょ濡れになる。
きょうはもう寝よう。
やや蒸すが涼しそうだ。

2011年9月15日木曜日

パソコンにはすずしい風が。

日陰はすずしい。
結局今年はクーラーを使わなかったわけだが少し動かしてやらないと壊れてしまうかな。

お店も明るくなった。
節電は終わったようだが基本となる生活態度には「節電の思想」が必要だと思う。
ひとの集まる店舗などはそこそこの明るさ・楽しさを感じさせないと社会は暗くなる。

状況が落ち着いてきたように見えると(錯覚すると)、やっぱり原発は必要だ、空洞化になってもいいのか、・・・とあれやこれやまたもとに戻る発言が勢力を増している。
フランスのなんとかという知識人が原発のススメを読売で説いていたが説得力はない、気にすることなく日本人がきちんと未来を見据えてどうしたらいいのかを考えていかなければならない。
「まず事故なんか起きない、事故が起きるまでの間に失われる"工業的進化・利得"と引き替えに100パーセント安全なエネルギー政策には転換できない・・・」という主張にきちんと反論できる見解を示さなければならない。
そして何よりも原発事故はその国だけの局部的問題ではないということである。大気や海を介して地球をくるくる回って汚している、これもglobaliseだ。

国の将来像や"国のあり方の思想"をきちんと議論・合意を得ていなければならない。
国力とはなんなのかという議論も大切なことである。
グローバル化によって"先進国"といわれる国は様々な似たような経済的・社会的障害物を抱え込むようになってきている。
なるようにしかならないのか、知恵が効くのか?

所沢のこの秋の選挙は混乱の極みの様相を呈している。
はっきり言って選挙どころではない放射能の問題でお茶屋さんがたいへんなことになっている。
1検体1.6キロ提出、100グラム3000円のお茶なんていくらでもある。検査費用が一万円台。
損害賠償請求がきちんと通るかどうかもわからない。
・・・。
お茶だけではすまなくなるだろう。
うちの大豆も廃棄かもしれない。
本業ではないので"いいスポーツをした"と考えればいいことだけど。
所沢がそうなら関東平野全部ダメということだろう。
作物以上に3.11以来我々は肺にたくさんの空気を取りこんで来たわけで体内にどれくらいたまつているのかの報道はなにもない。
自分のようにもう還暦近い人間はもう十分生かしてもらったという気持ちがあるが小さい子たちや若いひとたちはまだまだこれからだ。

国策ってなんなんだろう。
国の決めることにはぴりぴりとしていなければならない。
「選んだら、あとは任せきる」といった漢の武帝の発言は組織運営上は在る程度の鉄則性があるが、政治にはまったくこれが通用しない。
裏切られればいつも聞かれるのは「選んだのが悪い」になってしまう、つまりだまされたのが悪いと言うことだ。

総倒れ畑の草むしり。
そしてそろそろ出てきた与党虫いや野党虫でもない、夜盗虫(ヨトウムシ)の「はやけたて」葉っぱのつみとりである。
つまりちいさい蛾の幼虫だが葉っぱをメッシュにしてしまうやつである。
遠くから見てメッシュになってしまったものは"遅すぎ"なのだがそれでも幼虫が残っていることが多いのでつみ取る。本命は完全葉なのだがやや黒ずんでいる、生まれたての幼虫がびっしり200-300位はいるだろうか。
だいたい一反で2-5枚くらいだろうか。宝探しみたいで結構楽しい。もちろん「でかいの」引っこ抜きをしながらのことだが。
集めた幼虫付き葉っぱは火あぶりとなる。
この作業が10月初・中旬くらいまで続くだろうか。
10月に入ると枝豆も楽しめる。
10日くらいになると早生の刈り取りも始まる。
今までとは別の意味で忙しくなる。
農繁期の中の比較的気楽でいられるのが今の時期かもしれない。

県の農業関係に放射能のことを質問する。
理論的には・・・、という答えが返ってくるのかと思ったら収穫を経てからの検査しかないとのこと。
前例がないし原発学者も研究してないんだろう。
今回のデータが世界レベルで貴重なデータになっていくのだろう。
実験のできない世界だからね。
それにしては犠牲が大きすぎた。
お茶の高い数字が何から来ているものなのかわからないが、空から振りまかれて付着したものなのか土から吸い上げたものなのか断定できないとのこと。ただし米等からは今のところ出ていないとのこと。
細かに追跡していくとのことなのでそれに従うしかない。
それにしてもお茶屋さんはかわいそのうだ。
県の職員はかけずり回っている毎日よう。

空から眺めた・・・、の番組で京浜急行。
特に京急の古い車両を塗り替えて香川の琴電(琴平電鉄、こんぴらさまのこと)に輸送する場面がおもしろかったし琴平電鉄という名前がなつかしかった。20才のころかな、乗ったことがある。サイクリングの途中だったが。
新幹線のトレーラー輸送というのは時々テレビで目にするが、きょうのはおもしろかった。
琴平神社の奥のインからの(だったと思うが)讃岐平野の眺めは圧巻であった、そんなに標高の高いところではないはずだが。

Nさんのブログで思ったが、一番二番の問題。
空洞化とは要するに「圧倒的な一番」でないから価格競争に流されてしまうのではないかなと考えてしまう。だから日本を出る。
きのうの新聞に寄れば中国も労働組合の義務化から日本企業にはいずらくなりつつあるとのこと。
さまよえる日本の中小企業。だれが作っても同じモノに日本人が取り組む意味はないということか。
この国の工業はどうなっていくんだろう。
圧倒的な一番、心地よい言葉だけど・・・。

2011年9月14日水曜日

きょうはものすごく暑い。

35度くらいあるのではないだろうか。

薬屋さんの前を通ると「計測器あります」。
放射能のことか?

原発利用の場合の発電コストについて見直し云々というのをテレビでやっていて、地震前にはこんなに安くと言っていたものが倍以上になっているのが今の試算だと言っている。
テレビも新聞も議員も学者も我々もだれも見破ったモノはいなかった。
いやいやごく少数ながら見破ったものはいたのかもしれないが発言しないか、発言してもみんなに声が届かなかった。
むつかしい理路整然とした説明をされると"論理的だ"ということになってしまうのだが、論理をこしらえるに当たって当事者の"都合"がからんでくるもので、ひとの説明なんて・・・ということになってしまう。
見破る見破らないといっても専門的過ぎる話にはなかなかついていけるものではない。
落とし穴はどこにでもあるようだ。
だまされるほうがバカだ、と言われてしまえばそれまでだけど。

台風の前に精密草むしりをした家の裏の畑。
ほとんど倒伏したもよう。
でかいのもぽつりぽつり。
メヒシバの穂も目立つ、すなわち倒伏して日当たりが良くなり、倒れるのを防ごうと残しておいたメヒシバが大豆の株によりかかりながら一斉に大きくなってしまったのだろう。
畝と畝の間の通路が倒れた株でびっしり。
へたに入れない。
こりゃ草むしりに難儀するわ。

仕事の帰り、まん丸の月が。
自分の視力では満月は3日間続く。
ここち良い風も吹く。
畑の大豆の葉っぱの下には蚊がびっしりだが家のまわりにはほとんどいないような気がする。
蚊取り線香はやってない。
かゆくない・・・ただしあせもはかゆい。
ベランダでぼーっと月を眺める。
一瞬吠えてみたくなったが・・・。

2011年9月13日火曜日

お月見ブログ

を書いたあと、またベランダに行って横になっていると12時頃まで寝てしまった。
そのせいか風邪をひいてしまい左耳がいつものごとく聞こえが悪い。
鼻水も出る。

月の引力を浴びて今朝の自分はすこし変な感じであった。
こころが関わり合う相手が映像であるか、活字であるか、現物であるかによってこんなにも意識の活性化に差があるものかと感じられたお月見だった。
月と自分との間には空気しかない、空気の向こうは真空だ。
月と同じ空間の中にいる感じはきのうみたいにするしかない。
ずっと昔、奥多摩のある藪尾根をかきわけて縦走路にたどりつきそのまま水平路をたどり山小屋についたのが夜9時頃だったろうか、一月ごろの山行を思い出したがあのときも満月だったような気がする。薄雪の山の中の歩行は神秘的な感じで"お化けとか妖怪"とかの出番とは縁のない、こわいというよりは寒さの中にいながらふわふわしたものを感じた。
ひとの死とかいうものをまだそんなに見ていない年代でもあったので、この年齢だったらまた別の意味で人生などを重ね合わせてしまっているかもしれないが、あのときの感覚がなにかきのうのベランダにいたときのわずかなパーセントをしめていたかもしれない。

画像は目の前を通り過ぎがちである、もちろん見方でそうでなくもできるがほとんどの場合"思考"しない。
活字は頭の中で思考(理解・解釈・想像)をよびおこす。
現物対峙は・・・・。受け止め方次第かな。知性(感性まで含めて)が活性化していれば、豊穣の時間が過ごせる。力あれば、言葉にし絵にし音楽にし・・・ということだ。
知性を活性化するには・・・・日々考える習慣を持つことだな、これが大江さんのいう人生のハビットか?

 日曜日に畑を手伝ってくれた人形町の田中さんから人形焼きと甘酒がとどく。
催事やそこいらに常時売っている人形焼きしかしらなかったので「どうせ」と思いながら口に入れたとたんびっくりであった。
こんなにうまいものかという一言だけ。
すぐ家内に食べさせると「うん」。
薄皮に上品な甘みのこしあん。
やはり「本家」と言われるものは必ずあるはずだと信じていてよかった。
"工業製品"が出回って商品の名を傷つけているのである。
遠くても買いに行くよ。
銀治ちゃゅんの講談の帰りに寄ってみよう。
りっぱなお使いモノにできる。
うれしい贈り物であった、ありがとうございます。

農水省の「離農奨励金」。
なんだいこりゃ、と思いつつも私有財産という足かせがある以上こういう手しかないのか。
腐った政治・・・というより腐った現実か?
こういうことを予測してなのかどうかわからないが農業(農協)名士と言われる近在のXは何も耕作しないのに農地を集めてきた。
何も蒔かない、緑肥でお飾りの栽培はときどきする。
四六時中畑をかき混ぜては草が生えないようにしている。
今回の国の施策でひともうけできるだろう。
東京周辺農業は腐っている。
もちろんまじめな何代も続いた野菜農家、新規参入の有機農家もたくさんいる。
すべてが悪いわけではない。
こういう状況に追い込んだ国策にすべての責がある。
でも・・でも・・・わずかな隙間にがんばれた可能性もあったはずである。

離農奨励で目指すものは"大規模"である。
しかし、ほんとにいいものを作っているのはそんなに大規模のひとたちではない。
もっとも大豆のように大規模でも無農薬可能なものは他にもあるが。
野菜はいいものを作ろうとしたら大規模は不適切である。
それだけ手がかかる。
家族総出でいいものを作っている。
大規模ばかりを促進して参入してくるものはすぐ見当がつく・・・・農業を犠牲にしてのし上がってきた企業たちである。
いつも国策に、つまり工業政策に、振り回されてきた農業の転機がまたやってきそうである。
もちろん"悪い"という意味の転機だ。
そして守護者であるべき多くの消費者が安いモノばかり追いかけている。
どこまで螺旋降下していくのだろうか、この国の農業は。

2011年9月12日月曜日

日陰は涼しい

のであの35度のいきおいはもうないようだ。
きのうは草むしりの手伝いが来てくれて助かった。
書き忘れていたが夕方東の黒雲を背景にきれいな虹が出ていた。
連チャンのあとなのできょうは畑は休む。
ごろごろしていた。
ただごろごろでほなにもしない、5時まで。
たまにはこういうのもいいなあ。

きょうが満月なんだね。
ベランダに出てぼーっと月を眺めていると泣けてくる。
高いところ、しかもひかっているものはなにか「とおーくに行ってしまったひと」をこころによびおこすものらしい。
風もあり心地よい。
見上げてごらん・・・の歌にはちいさな星しか合わないが、月は・・・。
他愛もない空想も含め月が呼び起こしてくれる空想力の働きもまだまだ息があるらしい。
たのしい「ぼーっ」とした時間であった。
すすきとだんごがあればよかったな。

2011年9月11日日曜日

助っ人2名

により草むしり続行。
まだまだ9月一杯はむしったと思ったらちょいと前にやったところの大豆の葉っぱに覆われていないところは草が伸びてきてしまう。
追いかけっこだろう。
埼玉屋さんとお弟子さんのおかげではかどった。
連チャンになるが夜は一杯と相成る。
疲れているはずだが口はかってに動いていくようだ。
帰るとき見上げた月がまんまるだ(に近か)った。
お月見もいいなあ。
無風で蒸し暑かったけど。

2011年9月10日土曜日

久しぶりに暑い。

熱帯夜だったようで、夢をみた。
なにも覚えていない。

ラジオで10年後の日本の予測。
自分に置き換えてこの商売の予測・この町のありようの変化などを
夢見るのも楽しいことかもしれない・・・苦痛かな?

もうすぐ満月。
月を愛でながらの酒飲み会なんてできないかな。
きょういい酔い加減で帰還。
お陰様、だ。助けられて生きているんだな。

2011年9月9日金曜日

草の根本をしっかりにぎって

引っこ抜いたとたん、いててて。
切ったかなー?なんでもない。根本があったところを見ると、蜂の巣。
蜂の巣をにぎってしまったらしい。
ハチにさされるなんてほんとに久しぶり。
お風呂の床にいたアシナガバチをふんづけてちくりなんてのもあったかな。

家に帰ってムヒ虫さされ。1時間でなんともなくなってしまった。
お茶の木にくっついていたものが下に落ちたか、お茶の木の剪定の時にちいさくできていた巣ごと落ちてその後大きくなっていったのか。
長径10センチくらいだろうか。
殺虫剤で・・・と思ったが攻撃しなければ何もしない相手。スズメバチとは違って危険性もちいさい。
ということでその場所にポールをたてて注意!ということにした。

草むしり。
雑草ってすごいな。
どうしてこう後から後から出てくるんだろう。
しかしさすが"葉に覆い尽くされた日陰"の威力はすごい。
何も生えていないところに比べれば雲泥の差だ。
メヒシバのひょろひょろとしたボディは大豆の株によりかかるようにしてひょろひょろと伸びていく。
一種の共生だな。
大豆はメヒシバの根によって倒伏しずらくなる、つまり支えられている。
農業は自然のしくみそのものではないがぎりぎりのところでうまく利用して成果をこそ泥することなのかな、言葉は悪いけど。
薬を使うのは"ある論理"ではあるが、自然界の論理からは逸脱した強引な人間業だろう。
そんなに欲張らないこそ泥稼業。自然の"なるようにしかならない"ぎりぎり農業でいいと思う。
そして農業者をもっと増やすことだ。
大規模生産である必要はない。
食べる側・買う側がもっとこの国の食料について考えることだ。

2011年9月8日木曜日

こんな夏があっていいのか

というほど心地よい陽気の一日だった。
畑も去年より20日速いペースで片付いておりやや時間をもてあまし気味である。
思い切ってきょうは畑は休み。
知り合いのうどん屋さんへ行って食事とおしゃべり。
変えるとGladstoneについて調べ、続いてイギリスの子供番組Roman Mysteriesを見る。Beardも制作に関わっているはずだが。
ローマのベスビオ火山噴火のころからスタートしている。
つまりポンペイの災害がはじめのほうにおいてある。
ひとさらい、奴隷問題が今見ているあたりだがおもしろくできあがっている。
こういった夢のような世界で遊び物思へる幸せに感謝する。

お店へでるとおしゃべり健ちゃんは中高年への励ましと諦観ののすすめと相成る。
人生のゴールデン・エイジは60からだ。
60までは準備の期間。
ゆっくりと走りつつけよう。
"歩き続けよう"ではない。
ディズレーリとグラッドストーンはたぐいまれなな逸材で、国に勢いのある時はこういうひとが現れるものだな・・・というより時代がそういうひとを育てるのかなとも思うのだが、その"精神の体力"にはおどろくばかりである。
議会人になってから80いくつで死ぬまで"きこり"というか木の切りたおしが趣味だったというグラッドストーンなどは、生涯に読んだ本が2-3万冊という恐るべきもの。
この町の何代か前の市長が挨拶のとき必ずと言っていいほど「市長職はコンビニエンス・・・」とくりかえしていたのを思い出すが一国の首相はそんなものではないだろう。しかも世界に覇を唱えているときである。スーパーマンである。
ディズレーリはもの書きだ、しかも改宗しているとはいえユダヤ人の家庭生まれと言うことで議会内でもanti-semitismつまりユダヤ人排斥主義のいじめを受けている。屈折に屈折を重ねた人生は魅力たっぷりだ。
この2人が共存した50年間は英国の黄金時代。
マイナス面も含め生み出したプラスもけたはずれだ。
返す返すも読書は考えるヒントを与えてくれるばかりでなく考えるパートナーであることを改めて痛感する。
ソクラテスや司馬遷が2000年も前に言っていたことはそのまま今も真実である。
よく生きる、ことだ。
だらだらと長生きすることにはなんの価値もない。

2011年9月7日水曜日

良く眠れる。

おかげで夢がみられない。
楽しみなんだけどな。

きのうだったかなお昼に福岡県久留米地方の「善太郎大根」というのをやっていた。
地域の宝物食材で給食を、という番組だが栄養士の先生が張り切っていた。
なんでもかんでも甘く甘くという風潮をこしらえてしまった・・・というよりも「ひっかかったほうも」悪い。そんななかで、昔ながらの・・・、ということだろう。
辛い大根のようだ。
畑体験をちょいとやらせて子供と一緒に家庭科室へということで、なんと"焼いて"つまりステーキにしたのをメインディッシュにしていた。
大根を焼いて、という食べ方はしたこともないがおもしろそうだ。
需要に応えてなのか押し売りなのかわからないが改良品種というものの多くは国民の味覚を狂わせているような気がする。
生きるか餓死かというときにおめでたいこといってんじゃないの、というのが仕切ってるひとたちの号令だろう。
煽る道具がマスコミ・マスメディアである。

マスコミ・マスメディアの使命っていったいなんだろう。

おおざっぱ草むしり。
なんか充実感がない。
去年より20日早く精密くさむしりが終わってしまった。
一部摘芯をする。
成長点からつまみとることで栄養がさやに行ったり花のの数を多くしたりという技術であるが、少量の超大粒などには意味があるかもしれないがふつうのものにはやってるヒマがない。
時間がかかりすぎる。
何品種か試してあるのだが結果はどう出るだろうか?

2011年9月6日火曜日

台風はもうひとつあったのね。

知らなかった。
本州東に台風が、北上、北海道は雨。
このへんもお天気はさえない。
道路境の草むしりと誘導路はたの草むしり。
おしりがいたい、つまり背骨からきているいたみだと思うのだが・・・いつものやつだ。
「ソニー・クラーク・トリオ」というアルバム名のブルーノートの名盤を聴く。
草むしりにはあわなかった、というかきょうの体調にあわなかったのかもしれない。
ソニーの携帯CDプレーヤーでちょいと前のタイプだが音がいい。パナソニックのも使っているが比較にならない。ただ耐久性はいまいちなのかな、とりあえず読み取りエラーは出ていない。
古い機械はボディの素材自体がプラスチックではないのでモノとしての存在感もある。
高い機械がいい音楽体験をもたらしてくれるとは限らない。
受ける側の体調や気分のほうが大切である。
だから車のAMラジオから流れてくる童謡に涙してしまうことがあるのである。
CDウォークマン、MD、カセットウォークマン・・・・自分の宝だ。


お通夜からかえってくると町内会のことなので亡くなったひとのこと、どこのうちの娘があそこの嫁になり、・・・のうちのじいさんはやくざもので浅草では名の知れた・・・・、とかいったことを父が教えてくれる。村のことはこういうときでないと聞けないがこれも必要なことだろう。
おもしろいけどかったるいな。
"家"の興隆と没落。
どこへ行っても同じコトが起きている。
ただ、"切れないで"続いているということがいかに貴いことかと感じる。
もっとも消滅したとしてもそれはそれでいいのかな、そういうものか?
古い集落だが金田一耕助みたいなどす黒い因縁まみれの世界は聞いたこともないが・・・。
どの家も大して差のない貧しい天領のなかの部落だったということで、悪の権化みたいなお大尽の存在し得ない集落だったのだろう。

伸介の代わりの司会者は・・・たしか以前にも伸介が問題を起こしたときにピンチヒッターだったと思うが・・・上品な、飽きさせない司会者だと思う。アクはないが、いい感じだと思うが。
社長のお宝シリーズがおもしろかった。
いわゆる成金のひともいればうだつのあがらない老舗のぼんぼん(自分みたい?)だったりだが、それぞれの苦労を明るく笑い飛ばしているところに"気品"を感じた。
じぶんの周りにもこういうのがたくさんいるが気品を感じる成金はそうはいない。
"洗練"のふりをした単なる気取り屋さんにすぎないものばかりだ。
成金でもぼんくらでも落ちこぼれでもいい。
"精神の武士は食わねど・・・"をもつことだ。
かくして人生にもっとも大切なものはなにかと聞かれれば"気品"ということになる。
気品とは教養である。
教養とは(自分より劣っていようが勝っていようが)他人への思いやり、ひとのこころを想像する力である。ただし他人のそれをそのまま受け入れる必要はない。
自分はやはり自分を主張する。
自分を主張するときの"ひっかかり"が他人への思いやりだろうか。
これがやさしさだ。

政治とはむつかしいものである。
民主制とはやっかいなものである。
政治はぼんくらなひとには無理である。
ぼんくらなひとのこころはわからなければならないが。
選挙とは候補者を試験するのではなく我々選挙民を試験しているものである。
選択肢が存在しない場合は・・・・選挙管理委員の名士さん、どうしたらいいの。

2011年9月5日月曜日

スイッチがあちこちおかしい。

エプソンのパソコンのメインスイッチ。
寺岡の業務用ラベルプリンター。
ヤナギやの絞り器のメインスイッチ。
・・・。
部品を海外から買っているんだろうね。
おっとっと、民生用の電気製品はそもそも海外で作っているのか。

スイッチひとつとってもよそのはこんなに質が落ちるの?
押して戻ってこない。
ただそれだけのことだがわずかな精度の差なのだろうか。
100円のものを50円にしたからといって利益の増加なんて・・・と考えたくなるが巨大企業はそういうものではないとでもいうのかい。
信用失墜をとってでもコスト・パーフォーマンスを撰ぶの?

今回の台風は甚大な被害を紀伊半島を中心にもたらしたようだ。
山の斜面がそっくりすべり落ちている映像もあった。
都市の繁栄ゆえに無視されている地方の地方に気をつかわなければならないなと思う。
原発の見返りなんかに頼らないやり方を考えよう。
都市への富の集中は自然現象ではあるけれど、人間の知恵で"操作"しよう。

それにしても関東も未だに不安定なお天気続きで弱ったものだ。

家の裏ではない2枚を草むしりと「でかいのひっこ抜き」。
湿気はあるのでびしょびしょだが体力は消耗しない。
もうだいぶおおきくなったさやもある。
若干ぷっくらしたものもあり、これは早生で9月終わりくらいから茶色くなる品種で小粒だ。小粒は早生が多い、そして選別が大変でいらいらする、選別機が欲しくなるところだ。

Nさんの畑の写真を見るとぶっとい根っこがでてきたりするけれど、開拓でもしているのだろうか?
家庭菜園ではないようた。
収穫もりっぱだな。
富良野のはずれの大雪(富良野岳、上・下ホロカメットク)よりのほうへ行くと耕作放棄地というより農業放棄地があり草地化を通り越してすすきや木が生えていたりするので、こういうところを開拓し直したらおもしろいとは思うんだけれど大変だろうな。石もごろごろしている。ヒグマも出る。へびもいる・・・。ただ同然で借りられるとは思うけどブルドーザーはじめさまざまな機械も必要だろう・・・・この辺も貸してくれるとは思うけど。

お店に出かける途中、杉並児童合唱団(声質から小学校の中学年程度かと思う)の「見上げてごらん」。
研ぎ澄まされすぎたウィーン少年合唱団なんかよりずーっとこっちのほうがよかった。
このあと声楽をやっているおばさんが童謡をやったがうんざりした。
日本語は日本語の歌唱法でなければだめだ。

雨降りおつきさんとかシャボン玉とんだとか月の砂漠とか、童謡にはさびしい・悲しい思いを表現したモノが多いが美しいモノが多い。
きちんとした日本語の発発声で子供たちに伝えて欲しい。
きびしいことを言えば旋律そのものが日本ではないんだから・・・・ということになってしまうが。

仕事から帰ってくるとばかなクイズ番組。
「首を長くする」の意味についてジャニーズの何某が「遠くを見る」と答えて×になる。
もちろん期待して楽しみに待っていることだが、そもそもの意味は首を長くして見通しよくし遠くを見ることだと思う。つまり×のようでいて×ではない。いきなり×ではなく語義の変容を説明すればよかったと思うのだがこの司会者たちや指揮しているプロデューサーはバカである。
ここに日本の受験教育の象徴がある。
国語の「傍線部分の"正しい"意味を選べよ」のたぐいである。
国語を教えている教員が何も疑問を感じず・・というより教師用あんちょこ以外に答えはないあるいは考えたこともないというような状況では、国宝「日本語」の行く末、ならびに「ものを考えるハビット」ということの衰退はいかんともしがたい進行中の現実なのかもしれない。

この番組で以前「ふるいにかける」という英語を選べよという問題で帰国子女が「スクリーニングScreening」と答えて×になったのを覚えている。電話して抗議しようと思ったがすぐにはつながらないだろうと捨て置く。
filterring、というよりもscreeningが一般的だと思うんだけど。
filterはふるいにかけるという作業を通して「しみ出る」とか「漏れる」という意味に使うと思ったけど・・・つまりフィルターリングというのはむしろ間違っているとさえ思うんだけどな。
番組を最後まで見ていたが"修正"のテロップはでなかった。
いつも同じ人間が出ているが高い税金をかけてそだてた東大や京大の卒業生が、タレントとしての人気維持のために"バカ"とわかっていながらこういうものに出続けていること自体あわれなことだと思う。
知識だけなんだよな。

2011年9月4日日曜日

一日中風。

2回ほど軽いどしゃぶりがあっただろうか。

裏の畑、つまり最後に精密草むしりをしたところはきのう見に行った限りではことごとく倒れていて、きょうはこわくて行く気がしなかった。
風があるのできょうも「おおきいの引っこ抜き」すらやらなかった。

市役所の商工業アンケートが市長名で来ていたが農業委員会のいじめのことを書いておいた。
所沢はだめである。
将来的には所沢市以外の農村地域で・・・、という希望を書いておいた。
六次産業か。

仕事から帰ってくるとルドンであった、途中から見る。
20年くらい前になるだろうか、北浦和の県立美術館でルドンのデッサンが100近く展観できたときのことを思い出した。まだおそばやさんの「寶」はない
そのときも今もルドンは好きである。
色のついたルドンはほとんど見たことがなく、画集やカタログだけになってしまうのだがテレビのハイビジョン画像の「青い花瓶・・・」の映像は美しかった。
こないだの目に虫が入ったときの「沁みる」感じがした。
松坂慶子さんがルドンが大好きとのこと。
松坂さんも好きになる。
多くの俳優たちと違って「やせる努力」をあえてしないところがかえって好感がもてた、と同時に精神の高みを感じた。
自然体のまんまなのかな、なるようになる、逆らわない・・・。
デッサンでは無理な「染みいるいろ」というものを感じた幸福の時を得ることができた。
ルドンのファンは、ルオーとかムンク同様、この国にはたくさんいるようだが何が引きつけるのかな?
異常ゆえの正常みたいなところがあって裏側からみた狂気=正気の世界なのだろうか。

時間が逆転するがきょうの午後は畑にはいかず部屋の掃除とDVDを見ていた。
部屋のテレビはアンテナにつながっていないのでテレビは見られない。
ディズレーリのBBC放映30年前のものをみていた。
こころの機微とかは気迫ではあったが人物のおもしろさは伝わった。
グラッドストーンとディズレーリといえば英国2大政党制のピークの人物だが当時と言えばプロシアのビスマルクもいたころで、時代がこういう傑出した人物を生み出したのかなとも思った。
問題も多いけどとにかく勢いのあった時代なのだろう。
英国首相初のそして最後(かどうかはこれからのこともあるが)ユダヤ人家庭に生まれた首相でもある、ただし彼自身は10代でキリスト教の洗礼を受けているが。
Oxbridgeでもなく事業に失敗して借金だらけで帰国し、作家として英国での目立つ世界へのデビューをはたし後に政治に・・・・ということになるのだが興味つきないバルザックの世界にいるような人物である。ちょうど三国志で徳のかたまりとしてあがめられつづけてきた劉備が実は"暗愚"で、ほんとにすごいのは曹操なんだよというような感じで、どちらかというとグラッドストーンに偏っていた評価を変更しなければならないような感じがした。
ちょいと調べてみようと思う。
学校ではこういうおもしろい話をしてくれないんだよな。
先のほうにテストがあるからかい?

2011年9月3日土曜日

きょうは午後ずーっとごろごろしていた。


「日本語文法の謎を解く」の核心部分なのかな、主語のいらない言語の日本人のものの見方と主語がなければならない西洋語の違いの原点、つまり自然やひとに対する意識の正反対なことについて触れている部分に達する。
語学をやってここまでの言語間に達せたと言うことに驚かざるをえない。
言語学が哲学のある重要な柱の解読につながっていることを感じる。

リチャード・ハリスがスッラを演じた「ジュリアス・シーザー」をみる、3時間。
おもしろかった。
ブラウン管の小さいテレビをDVDプレイヤーにつなげてあるがちょいと画面がちいさすぎるかな。
リージョン1だがこのプレイヤーは受け付ける。
パソコンのioDataの外付けでも変更回数が5回程度と限られているがやはりリージョン1も受け付ける。
アメリカからというか日本以外から買うCDやDVDは極端に安い。
ものによっては字幕すらないが字幕にとらわれると以外と置いて行かれてしまうのでなくてもいいと思う。
史記は拾い読みしているだけでいつ終わるともしれないが、今度は漢書を始めようかと思う。
ちくまの世界文学大系のなかで全文取り上げたときのシリーズで3巻に分けられたものがあるが中古でも最低18000円もする。
本の値段は気持ちの問題にすぎないのだが、とりあえず図書館に行ってみようか。
図書館に最後に行ったのは25年くらい前だろう。
本は、特別高いものや軽薄・流行のモノ以外は買うことが著者への礼儀と考えているので図書館にはほとんど用はない。
図書館問題でもっとも騒いでいるのは"流行"の著者たちなのではないだろうか
そもそもはやりモノはほかの分野同様意識的に無視しているので自分にはどうでもいいんだけれど。

2011年9月2日金曜日

台風は進路をやや西へずれ

たようだ。
突然ざーと降ったり日が出たり風がふいたりで忙しい天気。
外仕事は出来るようで出来ないようで。
それにしても蒸し暑い。

台風のコースを考えると四国・山陽・山陰が大豆の成育に影響ありそうだけど。
この時期だと腰ぐらいまで育ったモノが倒伏しやすい。葉っぱが茂り頭がぬれると重みでバランスをくずす。しかも根の張り方はぶなのようで一部深くまでは行ってるものの弱々しい張り方ですぐに倒れてしまう。コンバイン刈り取りは困難である。
倒伏しにくい品種も改良品種では工夫されてはいるが、地上より上のスタイルと育ちのスピードに重点があり、根の張り方までは改良できていないようだ・・・不可能なのかな。
イネも倒伏しやすい。
武蔵野線に乗ると、荒川近辺で水田が眺められるが大雨のあとでごっつそりと倒れているのをよく見かける。

お店から帰る頃には路面も乾いていたが風が強くなっていた。

帰ると世界陸上。
女子200メートル。
白人ひとり以外すべて黒人。
注目のアメリカのアリソンは目つきがすごい。
どこか遠くの(ぼーっと、ではなく)一点を凝視しているようであった。
客席に手を挙げるときはかわいい目になる。
目といえばジャマイカのスチュアートがとてもきれいな目をしていた。
結局勝負はもうひとりのジャマイカ選手キャンベル・ブラウンとなる、アリソンは3位。
おもしろいレースだった。
短距離は日本人には"とおい世界"だな。

Nさんもいつか言っていたが「具体的なことを抽象的に思考しまとめあげること」がひとが「よくいきる」ということの重要な部分である、と丸山眞男も同じようなことを言っていたと思う。
講義よりも座談の好きな丸山の目指していたものは語り合う者の「掛け合い、インター・プレイ」だったのだろう。ジャズやクラシックのちいさいアンサンブルもそうであろう。

一方通行の知識の切り売り教育から生まれるものはなんだろう。
教師に責任はないとはいうものの、高等学校までの教育にはこういったものはほぼないと言っていい。
わかっていても、いやいやわからないのだろうし考えすらしないのかもしれない、・・・正義感故のぎりぎりの逸脱をやってしまう教師もどこかしらにいなくはないと思うんだけれど。
公教育には望むべくもない。

絵は知識-抽象化のもっともわかりやすい例である。
猪熊源一郎は若いひとたちを育てるこころのおおいさを人一倍もっていた画家だが常に言っていたことは「具象だろうが形がなかろうが大切なのは抽象性だ」ということを言っていた。
うすべったいわけのわからぬ"めちゃくちゃ"ではない。
音楽はそもそもが抽象なのだが、もとになる楽譜が"知識、事実"だとしたら演奏は抽象化の営みである。単なる"再生"ではない。

商業主義が優先されてしまうとここのところは無視されてしまう。

クリエイティビティを育てる環境というのはいつの世も二極化になってしまうのだろうか。
つまり極貧のなかの格闘か、その正反対かである。
カネの心配のない世界はそれはそれでこころはゆがむ、自分との戦いだろう。
どちらにしても平穏な人生にはなりえないと思うが、超越して仙人になってしまったひとたちはいる。
媚びない、のひとことは大変な"道"を示唆している。
司馬遷、2000年も前のひとに涙している。

2011年9月1日木曜日

本庄児玉から先は通行止め?速度制限?

お昼の天気予報では本庄近辺は大雨のもよう。
このへんは風も雨もなし、いたって静かである。
異様に蒸す。
が、気温は低いので冷蔵庫には入りたくない。

仲間由紀恵の出ている「イ・サン」というドラマの予告でペリーが出てくるのだが「
へえー」の事実であった。
ペリーは喜望峰・インド経由で沖縄方面から浦賀に来たようだ。
アメリカ東海岸発でパナマ運河もなかったし、蒸気と帆というハイ・ぶリッド仕様なので石炭補給の必要性もあり太平洋横断により一発でというわけにもいかなかったようだ。
ドラマを見ているわけでもないので「イ・サン」が何を意味するのかわからないが、韓国にイサン・ユンという大好きな作曲家がいるのでひとの名前かなと思うのだが琉球のドラマだしね。
仲間由紀恵さんはたしか沖縄の人だったと思うけど。

精密くさむしり終了のこともありすこしだらけてしまい昼から3時ごろまでごろごろとしていたがせなにか落ち着かず畑に行って「おおきいのひっこ抜き」をやる。
結構出ているので時間がつぶせる。
しかしきょうはこの辺にはまったく雨がふらないようだけれどすごご近所では大雨だったりで大変のようだ。
夕方になってもかなり蒸す。

葬式が多い。
きのうお通夜に行ったかと思ったらこんどは火曜日。
この時期は多い。

目のほうはだいぶ腫れも引いたのだがまだいくらか赤い。
そして下側がしみのようになってしまった、消えるんだろうな?
目は敏感なところである。
夕刊にコロッケの中耳炎の記事が載っていた。健康欄の連載記事なのできょうは導入部なのだが、なんか自分の生い立ち・・・耳に関して・・・と似ている。
耳・鼻の構造の未発達が基本的な原因、と三井記念病院の奥野先生に指摘されましたが似たようなところがコロッケにもあるのかな?

体を使わないで休息する、というのがなんか耐えられない苦痛のように感じるのだが四六時中規則正しく毎日からだとあたまとを適度に使っているのがいちばんいいのかな?
ということは息抜きなどというものが自分には・・・、と考えてしまう。
息抜きと称してぼーっとしていることが耐えられない時間の過ごし方に感じてしまうのである。
これは困ったことなのかな?