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2011年10月2日日曜日

京都の枝豆

"むらさきずきん"という品種のレポート番組をちらっと見た。
身の色からして黒豆の親戚とおもわれる。
そうすると"ほくほく"という説明が納得できる。
このタイプはぱんぱんになった後の実の色が茶色くなりかかったころがうまい。
ただしやや固くなり始めているので煮る時間は長めで15-30分くらいかかる。
普通枝豆は反ったさやの内側の弧の部分が開いてきたらゆであげ完了、と習った記憶があるがこれはあまりにもおおざっぱすぎる基準でぱんぱん近くなっている場合は通用しない場合が多い。
結局食べてみて決めるしかない、というのが答えである。
京都のこの品種を栽培している農家の畑を写していたが株が倒れにくいように株の両脇にヒモを張っていた。
丹波篠山では株の頂上と頂上をヒモで結んでピンと張っている、と聞いたことがある。
ただしこないだの台風ではやはり根本はゆるゆるで穴があいてしまっており番組では穴埋めをしていた。
枝豆で大豆を売る農業ならそれなりに手間はかけられる。
つまり枝豆が一番高い値段で売れるからである。
しかし農業的な「手のかけよう」はいうまでもなく最後の固い粒まで育て上げるほうである。
理不尽といえば理不尽であるが、これが需給バランス・市場原理というものである。
こういったことまで考えると消費者はあまりにも「農業の過程」を知らなすぎる。
学校の蒔いて・収穫だけ授業がほとんどなんの意味もない「与えた側の自己満足」イベントであることがわかる。こういったイベント授業から生まれるのは農家をばかにした都会人いや都会居住者の気運育成、そして逆からは「生活がかかっているから、作物をつくらなくても税金がかからないように、最大限の効率をはかれるように農薬使用、・・・」ということになってしまう。
社会全体がもっとそばによって農業を見つめなければならない。
「顔の見える農業」なんて気の利いた宣伝文句だけではだめである。このことばは商業的偽善である。
さまざまな障壁によって難儀しているのは真剣な農家と政治・経済・社会環境によってふりまわされつづけてきた農水省・各農政課である。農業の役所は被害者であるといえる。

うまい枝豆が全国で5銘柄程度あげられていたが新潟の「サカナマメ」があげられていた。
これは気品のある香りに甘み・うまみバランスのとれたすばらしい味の枝豆である。

きのう金木犀の開花に気づく、咲いたのはいつ・・?
茗荷の花咲く、採集して所沢のNさんに。
谷中ショウガも半分とってNさんに。
ピーナッツをちょいと引っ張ってみたがはじのほうはまだまだちいさい。
銀の次がぷっくらとふくらんできた。兄弟のおきんさまはまだのよう。
夕方親友のKさんが奥様とお店に来てくれた。まだおくられてきた小説を読んでないので謝る。武澤先生の論攷が文春に出ていたと聞く、まだ売ってるかな?

読売に載っていた癌研元総長・垣添先生のコラムがおばさんの死とMの死のことがちらつき身につまされるものがあった。
在宅介護半年間と最後まですっぽかし(事実上の孤独死)親不孝の2例を比較したがこれからの高齢化社会で切実な問題となってくる。
ウチらの年取った頃には早くこの世にグッドバイするのが社会のため、ということになっていることだろう。
税収減以前に国家の破綻ということも考えられるから。

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